子どもと新自由主義社会ー絵本作りから矜持が失われていくー
※これは2021年5月8日付でfacebookに投稿した記事を、加筆の上再掲したものです
ヒットを飛ばすも次々炎上する絵本作家の商法はどこがマズいのか
ーまつい きみこ (DIAMONDonlineのリンク記事です。ぜひ読んでみてください)
「のぶみさんが相手にしているのは、小さな子どもを育てるお母さんたちです。彼は、『お母さんたちが買ってくれる』という部分だけをマーケティングし、『大人にウケる』、あるいは『私、こんなに頑張っている』と承認欲求の強い母親が泣けるという部分に焦点を当ててきたのでしょう。そこに『売らんかな』というあざとさが見え隠れしています。お母さんの向こう側にいる、幼い子どもの発達段階や心理というものをまったく気にかけていないのです」
「だからこそ母子分離不安をあおる『ママがおばけになっちゃった!』のような、死を軽視し、子どもを不安に陥れる作品が描けてしまうのです。
引用記事に限らず、上述の人気絵本作家に対しては炎上や批判が繰り返され、「子どもへの育ち」の悪影響が指摘されている。
子どもの発達や心理へ悪影響が不安視される内容でも売れるから描く作家、売れるから出版する会社。
この作品の読者で、『ママが死んだらどうしよう』『ママ大好きだから死なないで』と子どもが泣くのが、ますます愛おしいといったような感想を述べる母親が少なくない。こういった行為に対して、母親の無自覚な心理的虐待では、という批判もある。
こういった心性自体には理解ができるが、こういった感情に没入していしまうと、マルトリートメントや子どもの利益を後回しにした「オヤ中心主義子育て」に陥ってしまいやすい危険性を孕む。そのため専門家や、絵本作家などは、当該作者の作品に対して警鐘を鳴らし続けている。
親の承認欲求が子どもの心理的安全性の保たれた育ちを侵害するのは、
従来なら、もっぱら高学歴、習い事での受賞など我が子をトロフィーチャイルドにしようとする子育てによるものだった。
身体的・心理的虐待を伴うような過剰なものは教育虐待と呼ばれたり、毒親と呼ばれるが、その域でなくともマルトリートメントを伴う子育ては、今も昔も多くのアダルトチルドレンを生み続けている。
承認欲求の高い親の『エモさ』が優先され、子どもの発達や心理的安全性が侵害されるというのは、トロフィーチャイルド子育てよりも小さな影響(ダメージ)かもしれないが、マイルドなマルトリートメント(不適切養育)に及びやすい状況だ。
作家や出版社も含めると、商業的価値を優先し、子どもの育ちや心理的安全性の侵害を許容する(そもそも全く問題視しない)という、社会によるマルトリートメントなのかもしれない。
新自由主義社会では、多くのお金をもたらすことが絶対的な価値になり、その他の要素(倫理や社会正義、社会貢献、芸術性、専門性、文化的意義など)はそれにどれだけコミットできるかで価値を評価される。コミットできないもの、むしろブレーキを掛けるものはその価値を矮小化させられてゆく。
従前の絵本作家や出版社は、絵本に関しては子どもの専門家としての自覚と矜持をもって、発達心理学などの知見を参照しながら、作品を作ってきた。絵本出版社が、子どもにとって良いものをという子ども中心志向や、その矜持と倫理も失ってゆくのもその一環なんだろうか。
『読み聞かせを前提とした絵本は、子ども中心志向(チャイルドファースト)たるべし』といった揺るがなかった通念さえ、『そういう価値観もあるよね』程度の存在に墜とされるのだろうか。
となれば、
新自由主義社会は、単なる格差拡大やそれによる社会不安にとどまらず、
社会転換のあとも影響を残すレベルで、文化と知性の衰退と劣化をもたらすだろうし、環境破壊、生態系や伝統的技能の喪失といった取りかえしのきかない損失もあるだろう。
それも、人間の営みであり、人類の歴史なのだろが。
新自由主義社会化はもはやとめられないとして、さらなる社会転換がいつどのようにもたらされるか。それは新自由主義の破綻なのか、進化なのか。
生きて迎えることができるかはわからないが、その日までどうやって抗い続けるかを考えている。