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対話は誰のためのもの?


今日はのびやかスペースあーちでのてつがくカフェでした。


テーマは「みんなが参加しやすい場とは」でした。


今回は参加者がまさかの1人😂どうしよう…と思ったけれど、後から小学生の子が2人入ってきてくれました。
小学生の子がいるだけで、だいぶ雰囲気が変わるりますね😳大人たちは難しい言葉で社会的な言説を自分のもののように語りますが、子どもがいると、難しい言葉を使わないように意識します。そうすることで、いつの間にか理論武装が剥がされ、自分の体験に基づいて話すようになりました。大人と子どもの対話の相互作用ですね😳子どもの語りからはっと気付かされることも多く、多くの大人たちが忘れているものがそこにあるように感じました😌

今回の場そのものが私にとってはとても参加しやすかったです。乳幼児から高齢者まで😳幅広い世代の人が共に対話の場に参加できました。とういくんともう1人の小学生と一緒に遊び、歩き回りながらも最後までその対話の場に参与できました。とってもフリーな空間だったので、それがよかったのだと思います。

今回の哲学カフェでは、大人と子どもの数が半々だった、人数が少なく、話しやすかった、多様な人が集まり、マジョリティ、マイノリティという関係性がそこに生まれなかった等々…様々な要因が絡み合って、新しい対話の場が出来上がったと思います。しかし、これは哲学カフェと言えるのかという課題も出てきました。哲学カフェに参加しに来た人は不満に感じるかもしれません。一般的な哲学カフェでは大人同士(健常者同士)の対話が想定されており、子連れや障害のある人々、子どもは対話の場にいることがそもそも想定されていません。そういう人達との間ではそもそも対話が成立しないのかもしれません。お母さんは子どもを預けたり、家で見ていてもらうことで「母」という役割を脱いでしまえば、参加できます。子どもは大人になったら参加できますね。障害のある人は障害の種別や程度によっては、対話の場に参加することができるかもしれませんが、参加できない人もいます。しかし、おそらく対話に参加できないと考えられている人々との対話こそが大事なんじゃないかなぁと思います。

上手く言葉にできないですが…

ま、こんな感じで今回の哲学カフェではいろいろと考えさせられました👐(雑なまとめでごめんなさい笑)


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