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出汁でトリップ (急に寒くなった夜と美味しいお蕎麦の話)
この日も、僕はいつものようにフラフラと家路につこうとしていた。
いつの間にこんなに寒くなったんだろう。
「もう四季なんてないですよ。夏夏夏夏ですわ!」と、グラス片手にいつも得意げにしていた僕は、ぐっと身体を縮こませた。なにも気温のせいだけではない。
とはいえ、持ち前の怠惰からか、冬服はクローゼットの奥底でクシャクシャにしたままである。
街には、ホコリひとつ付いていない、ピシッとしたコートを着た人たちが楽しげに行き来している。
僕は気恥ずかしく思いながら、出来るだけ身を縮めて急いだ。
そんな時に目に留まったのが、一軒の立ち食い蕎麦屋だった。
その濃厚な鰹出汁が鼻腔を侵し、気がつけば僕は暖簾に手を掛けていた。この時の僕は完全にキマッていた。
注文を済ませ、入り口横の給水機から水を注ぐ。
ちょうどその時来店した男性と、僕は目が合った。
そのおっちゃんは見るからにアブなかった。
目は完全にキマり、季節感を無くしたかのような薄着で、チェーン店の店員に常連風を吹かしている。
15時ごろに立ち入った居酒屋で、よく見てきたタイプのおっちゃんである。
第二の客が来店したのは、その直後だった。
目の座った、見るからに寒そうなグレーのスウェットを上下に着た金髪の若者が、L字のカウンター越しに荒々しく注文をした。
僕は何とも言えない緊張感の中で、ひたすら好物の天ぷら蕎麦を啜った。
狭い店内にはおっちゃんの咀嚼音が響く。見ると歯がない。歯がないからそんなにも音がするのかと、僕には少し愛らしく思えた。
次第に身体が温まり、汗がにじむ。
暑さの中で省みると、僕の服装のなんと薄いことだろう。
店内には、必死に蕎麦を啜る三つ巴の音が響くばかりである。
呑み屋街で親しんだ喧騒とは、全く異なる空間がここにあった。皆、この匂いに誘われ、黙々と喜びに浸るので精一杯なのだ。
器を垂直に、天高く掲げたあと、僕は再び暖簾に手を掛けた。
さっきまでの寒さはもう感じない。僕は歩き出した。
一つ目の信号で止まった時、横にはマフラーを巻いた女子高生。
ポカポカと悦に浸る僕は、ふっと笑いながら、その横を足早に駆け抜けた。
家に帰り思い返す。そこには、この寒い中で限りなく薄着の、満遍なく汗をかいた男性が、笑みを浮かべながら横断歩道を駆け抜ける姿があった。
僕は、すぐにでも冬服を出そうと心に決めた。