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【連載小説】 Adan #30
はじめてのアルバイト〈11〉
僕はその場にいることに耐えられなかった。即刻その場から逃げ出したかった。第二宇宙速度(地球脱出速度)で逃げ出したかった。できることなら地球からも、いや、宇宙からも逃げ出したかった。宇宙脱出速度で。構造の外側の構造へ。実存の内側の実存へ。
僕は車をバックさせようと思って、ギア・スティックを掴んだ。けれど、僕はギアをRに入れることもできなかった。正人くんに止められたのだ。彼はギア・スティックのように出来上がっていたソレをズボンの中に押し込むと、僕のところに第三宇宙速度かと思わせるスピードで走って来て、運転席の窓をノックしたのである。僕はこのとき、スパイホップしたシャチと目が合った氷上のアザラシの気持ちが分かった気がした。
僕はおそるおそるパワーウインドウのスイッチを押した。開くな、と心の中で復唱しながら。
薄情で臆病な窓がドアの中に隠れると、シャチは僕と話がしたいと言った。あいにく僕はこの上なく暇だった。したがって僕はシャチの誘いに応じた。
スタッフ専用駐車場に車を駐めて、僕は運転席から降りた。すると、正人くんと聖良ちゃんのほうからこちらに歩み寄って来た。
「荻堂さん、『冗談』って言葉、知ってます?」と聖良ちゃんが僕に訊いた。彼女は堂々としていた。塀も何もない開放的な場所で西日を背に正人くんのコニードッグを頬張っていたのは伊達じゃない。
「知ってるよ」と僕は聖良ちゃんに言った。「冗談というのは、『日本国はアメリカ合衆国51番目の州である』みたいな発言のことだよね。違ったっけ?」
聖良ちゃんと正人くんは顔を見合わせていた。それからしばらくして聖良ちゃんが、ぜんぶ冗談なんです、と僕に言った。僕はその言葉の意味が飲み込めなかった。困惑した表情を見せていたと思う。が、彼女はそんな僕のことなど歯牙にもかけないといった様子で語り始めた。
正人くんのコニードッグを頬張っていたその行為が冗談ってわけではなかった。聖良ちゃんの冗談とは、ローライダーに乗っている男性が好き、という発言のことだった。逆に彼女はローライダーのような車に乗っている男性を生理的に嫌悪しているとのこと。それから続いて正人くんが話し始めた。彼の話の内容は、僕に語った聖良ちゃんの男性のタイプもすべて冗談、というもの。つまり、レインボー・アフロでエアロビクスウェアを身にまとった男性は聖良ちゃんの好きな男性のタイプではなく、正人くんの冗談だったってわけ。
信じてもらえないかもしれないが、僕はその人の言ったそれが冗談かそうでないか、その見極めができる人間だ。それこそ、ぜんぶ冗談でした、とこのとき二人の言ったそれが冗談なのではないかと推し測れたくらいなのだ。僕が今まで見極められなかった冗談といえば、十五年ほど前に姉の言った、数を最後まで数えたことがある、という冗談だけだ。ではなぜ、聖良ちゃんと正人くんの冗談を荻堂亜男は見極められなかったのか。その理由は極めて素朴なものさ。僕が二人の冗談を見極められなかったその理由、それは——恋をしていたからである。
つづく