
わたしが彼女を愛した理由 1 バンコク出張編
羽田空港を離れるとき、私の頭は整理されていた。整然とした空港内、ガラス越しに見える飛行機たちが規則正しく並んでいる様子は、東京そのもののようだった。全てが秩序立てられていて、まるで一つの大きな時計がきっちり動いているような感覚。それが、時折窮屈に感じることがある。そんな気持ちを振り払うように、チェックインを済ませ、飛行機に乗り込んだ。
飛行機がバンコクのスワンナプーム国際空港に着陸し、飛行機のドアが開いた途端、湿った空気が一気に体を包み込んだ。東京の乾いた秋の空気とは全く異なる。ここは、異国の世界だと感じさせる。
道中、窓の外に広がる風景に、目を奪われた。片側には近代的なビル群が立ち並び、もう片側には古い屋台や、露店がぎっしりと並んでいる。プラスチックの椅子に座って食事をする人々の姿や、道路脇で焼かれる串焼きの香ばしい匂いが車内に漂ってくる。ここには、東京にはないどこか野生的で生命力に溢れたものがある。他方で、東京は整いすぎている。道行く人々もみな速足で、どこか目的地を目指して忙しなく動いている。けれどバンコクでは、人々があちらこちらで立ち話をしたり、ゆったりとしたリズムで生活しているように見える。その自由さが、眩しく映った。
ホテルに到着し、ロビーに足を踏み入れた。高級感漂うホテルの内装は、一瞬だけ私を東京に引き戻すような気がした。けれど、外から聞こえてくるクラクションやバイクのエンジン音が、ここがバンコクだという現実を感じさせてくれる。チェックインを済ませて部屋に入ると、疲れがどっと押し寄せた。でも同時に、この街に引き込まれていくような気がしてならない。東京の秩序と違う、この混沌としたエネルギーの中で、自分自身をもっと自由に解放できるかもしれない――そんな予感がした。
バンコクに来たのは、再生エネルギーに関する国際展示会への参加のため。明日からは、私が所属するエネルギー会社の新規事業開発部門の取り組みをプレゼンする役割が待っている。タイ市場に向けた新しい技術や、私たちの取り組みをアピールする大事な機会だ。東京でもたくさんの展示会に参加してきたけれど、今回は何か違う気がする。バンコクという異国の地、そしてこの街のエネルギーが、何か新しいものをもたらしてくれるような予感がしてならない。
ホテルの部屋に入ると、広々とした空間に旅の疲れが一気に押し寄せた。部屋は機能的に整えられており、どこか無機質な印象を受けた。窓の外にはバンコクの街が広がっている。ベッドは大きく、フワフワとしたクッションがいくつも置かれていて、どんなに疲れていても安らげそうだ。ミニバーには冷たい水が用意されていて、喉の渇きを癒す。
でも、今一番欲しいのは熱いシャワー。旅の疲れを流し、心も体もリフレッシュしたい。
スーツケースから部屋着を取り出し、バスルームへと向かった。シャワールームは清潔で、シンプルな作りだが落ち着く空間だ。鏡の前で、自分の姿をふと見つめた。東京にいるときも、毎朝欠かさずヨガをして体を整えてきたし、ランニングも続けている。おかげで、自分の体にある程度の自信がある。身長は165cmと、日本人女性としては比較的高めだし、全体的に引き締まっている。でも、どうしても気になってしまうのは、小さな胸。昔からコンプレックスだ。でも、腰のくびれや長い手足は、そんな自分の体の中でも特に気に入っている部分だ。スリムなシルエットは強みかもしれない。
服を脱ぎ捨て、シャワーの水をひねった。熱いお湯が肌に触れると、全身の緊張が一気にほぐれていく。バンコクの湿った空気が体にまとわりついていたけれど、今はそれもすべて流れていくような気がする。シャワーを浴びながら、明日のことをぼんやりと考えた。新しい技術のプレゼン、訪問者とのやり取り――考えることはたくさんある。だけど、それ以上に今は、この異国の地で新しい自分を見つけたいという思いが強くなっている。
シャワーを浴び終えると、バスルームは一面に蒸気が充満していた。曇った鏡を手で拭い、自分の顔がぼんやりと浮かび上がる。じっとその姿を観察した。飛び切りの美人ではないけど、整った顔立ちだと自分でも思う。すっきりした目元や形の良い鼻、少し小ぶりだけどバランスの取れた唇。それが私の顔だ。これまで、自分の顔に大きな不満を持ったことはない。鏡の中の私は、頬が少し赤くなっていた。もしかしたらシャワーの熱で紅潮しているのかもしれない。でも、それ以上に、旅の疲れが出ているのかも――そんな風にも思った。飛行機で何時間も座っていたせいもあるし、初めてのバンコクの刺激に少し神経が高ぶっているのかもしれない。
そうやって自分の顔をじっくり見つめるうちに、東京での生活が頭をよぎった。いつも朝早く起きて、通勤ラッシュに揉まれて会社へ向かい、夜は遅くまで仕事に追われる日々。仕事は好きだし、やりがいもある。新しい事業を立ち上げるのは、エネルギーが必要で難しい挑戦だ。周りからは成功していると言われることも多いけど、本当にこれで満足しているのだろうか?――そんな疑問が浮かんでくることもあった。
家に帰って、ひとりで静かに過ごす時間が好きだ。だけど、時々心の奥底で感じるのは、何かが欠けている感覚。友達や家族と会うことも楽しいし、趣味のヨガやランニングだって続けている。でも、もっと違う何かが私の中で求められているような気がしてならない。このまま、東京でただ忙しく日々を過ごしていくだけでいいのだろうか?曇りが取れた鏡の中で、紅潮した自分の顔が静かに問いかけているように見えた。
シャワーを浴び終え、すっかり気分が軽くなった私は、ワンピースに着替えることにした。バンコクの湿った空気に合うように、薄手で風通しの良いものを選んだ。ミラーに映る自分を一度見て、少し考える――メイクをするかどうか。東京では、毎日欠かさずにしてきたルーティンだ。仕事に行くときはもちろん、オフの日でも何かしらの緊張感を持って、自分を作り上げていた。
だけど、今は違う。バンコクに来て、私の中にあるその「鎧」を脱いでみたくなった。メイクをしない自分は、少し不安を感じながらも、素のままの自分をさらけ出すような自由を感じた。この街は、私を無条件に受け入れてくれるような気がして、今日は思い切ってすっぴんのまま街に出ることに決めた。ワンピースを身にまとい、スーツケースの中に眠っていたお気に入りのサンダルを履いて、ホテルのドアを開けた。バンコクの空気は、東京とは全く違う。湿り気を帯びていて、生き物のように肌にまとわりついてくる。その感覚が、東京のビル風の冷たさとは対照的だった。東京では、まるで戦場にいるかのように毎日を過ごしていた。どこか常に身を張って、周囲の目を気にし、誰にも負けないように鎧をまとっていた。仕事でも、プライベートでも、その緊張感が私を支えていたのかもしれない。
でも、ここバンコクでは、その鎧を脱いでもいい気がした。私が私のままで、ただこの街の空気に身を任せていられる。自由に、気楽に歩いていける――そんな開放感がある。すっぴんで街に出ることなんて、東京ではほとんど考えられないこと。でも、今夜はそれが心地良い。ホテルを出て、街の喧騒の中に身を置くと、通りを行き交うタクシーやバイク、そして道端の屋台から漂ってくるスパイシーな香りが一気に包み込んだ。街路の明かりが、素顔を優しく照らしているように感じる。この街自体が私を歓迎してくれているようだった。歩いていると、背中の力が抜けて、肩の緊張もほぐれていく。
どこかふわりとした気持ちで、夕方のバンコクを歩きながら食事する場所を探す。今夜は、何も考えずにこの街のエネルギーを感じたい。バンコクの街をゆっくりと歩いていると、ふと目の前に緑が広がった。大きな公園だ。夜の光に照らされた木々が風にそよいでいて、心地よい静けさが漂っている。足を止めて、公園の中をしばらく眺めた。この場所、何か惹かれるものがある。自然と調和した空間が心を落ち着かせてくれるようだった。
「ここなら、ヨガができそうだ」
そんな考えが浮かんだ。明日の朝、早起きしてここでヨガをしてみよう。異国の地で自分と向き合う時間を持つのは、なんだか新しい自分を発見できそうな気がする。タイの風に吹かれながら呼吸を整え、ゆっくりと体を動かすイメージが頭に広がる。東京での忙しさから解放され、静かなひと時を味わえるこの場所が、今の私にはぴったりだ。そう思うと、明日が少し楽しみになってきた。
さらに足を進めると、少し奥まった路地に、小さなタイ料理の店を見つけた。屋台の魅力にも一瞬心が動いたけれど、今日は疲れていたこともあって、少し静かな場所で落ち着いて食事をしたかった。路地裏に佇むその店は、こじんまりとしていて、温かみがある。外に漏れる柔らかい明かりが、まるでここに入って休んでいけと言っているかのように感じた。
「静かに食事ができそう」
そんな風に思いながら、扉を開けた。店内は思った通り、ほっとするような雰囲気で、観光客で賑わう外の喧騒とは対照的だった。ここなら、リラックスして食事ができる。今日は、あまり気を張らずに、自分を優しく労わる時間を持つのも悪くないと思った。展示会の前日だというのに、バンコクのこの穏やかな空気の中で、ふと心が軽くなっていくのを感じる。スパイシーな香りが漂う店内で、ひとり、バンコクの魅力に少しずつ引き込まれていく気がした。
店員が笑顔でメニューを差し出してくれたが、タイ語がぎっしりと並んでいるだけ。英語のメニューがないことに一瞬戸惑ったものの、動じなかった。旅先ではこういった場面に慣れている。それでも、ローカル感溢れるこの小さなタイ料理店に入ると、どこか新鮮な緊張感が走った。とはいえ、メニューに迷うことはなかった。「カオマンガイ」。シンプルでいて、タイ料理の定番。こういう店なら、必ず提供しているだろう。
注文すると、店員は慣れた様子で頷いた。少し安心しつつ、次に飲み物を頼むことにした。バンコクの夜の湿気を和らげるには、冷たいビールがきっと心地良いだろう。ビールを頼むと、運ばれてきたのは瓶ビールと、氷の入ったグラス。氷が入ったグラスにビールを注ぐと、カランと音が響く。初めての感覚に、思わず微笑んだ。ビールを一口飲むと、冷たさが喉をすっと通り、心地良いリフレッシュ感が広がった。氷で冷やされたビールが、バンコクの湿度を忘れさせるようで、思いのほか悪くない。旅の疲れも少し和らぎ、今日ここまで来た自分を少しだけ労わる時間が流れる。
カオマンガイは、蒸し鶏がしっとりとご飯に寄り添い、横にはシンプルなスープと、タイ独特の甘辛いソースが小さな器に入っている。見た目以上に豊かな味わいを持つ料理だ。最初の一口を食べると、鶏肉の柔らかさと香草の香りが口の中に広がり、安心感とともにこの街の温かさが伝わってくる。望んでいたのは、こうした余計な装飾のないシンプルな味かもしれない。
ゆっくりと食事を楽しみながら、明日以降のことをぼんやりと考えた。明日は月曜日、展示会の初日だ。仕事が本格的に始まる。新しいエネルギー事業について紹介する。これまでも何度か大きな展示会を経験してきたから、心配はしていない。むしろ、うまくいく自信もある。でも、その裏で心が少しだけざわついているのも感じていた。
なぜだろう?おそらく、展示会が終わった後の時間が期待を膨らませているのかもしれない。仕事が終わったら、チームのメンバーと懇親会をする予定だ。タイのパートナー企業も加わって、現地の雰囲気を楽しむ。みんなで集まり、成功を祝う瞬間が待っている。だけど、それ以上に心を踊らせているのは、打ち上げの後から始まる「自由」だ。週末までは、何の予定もなく、バンコクの街を自由に歩き回ることができる。その時間が私の中で、特別な意味を持ち始めている。
バンコクには、観光するだけではなく、もっと深く入り込みたい。東京では感じられない、この街特有のエネルギーを全身で受け止めたい。喧騒の中に潜む静かな空気、人々の生活の匂いや音、屋台のスパイスが漂う雑多な路地裏――そのすべてが、新しい経験になりそうだ。東京での戦場のような生活から離れ、この街に身を委ねることで、自分自身が何かを解き放てるかもしれない。
「ここで何を感じるだろう?」と考えると、期待が膨らんでいく。この自由な街で、鎧を脱いだ自分が何を見つけられるのか。それはまだわからないけれど、少しずつ自分を解放しながら、この街を味わってみたいと思った。カオマンガイの最後の一口を口に運び、ビールを流し込むと、ふわりとした満足感が広がる。明日は展示会初日。大切なプレゼンの最終確認が残っていることを思い出し、本格的に酔ってしまう前にホテルに戻ることにした。スマートフォンでマップを確認すると、ホテルまでは歩いて15分ほど。まだ完全に暗くなっていないし、この街の空気を少しずつ味わいながら、歩いて戻ることに決めた。
通りに出ると、バンコクの喧騒が一気に耳に飛び込んでくる。タクシーやバイクがひっきりなしに行き交い、クラクションの音や、露店から聞こえるタイ語の掛け声が混ざり合っている。東京の夜とは違う。この街には整った美しさはないけれど、どこか野性味に溢れたエネルギーが漂っている。この街には混沌がある。完璧ではないけれど、その不完全さが、むしろ私を解放してくれる。人々は自由に街を歩き、屋台で食事を楽しんでいる。交通渋滞も、雑多な音も、東京では考えられないほど無秩序だけれど、どこか温かみを感じる。この街のリズムは、私の心に余裕を与えてくれるようだ。歩きながら、屋台のスパイシーな匂いに鼻をくすぐられたり、バイクが隣を通り抜けるたびにそのスピードに驚いたりしながら、東京では感じられないこの街の生きたエネルギーを感じていた。東京がきっちりと整えられた絵画なら、バンコクは筆で描かれた抽象画のようだ。何が飛び出してくるかわからない。その予測不能さが、私の心を躍らせている。
ホテルの部屋に戻り、落ち着いた空気の中でラップトップを開いた。画面には、明日プレゼンするためのスライドが映し出されている。スライドを一枚一枚スクロールしながら、頭の中で明日の会場を想像してみる。大きな会場で、多くの人々が自分の説明に耳を傾ける姿が浮かんだ。東京で何度も練習してきたおかげで、自信はある。スライドの内容も、伝えたいメッセージも明確だ。流れも問題なく、順調に進んでいくイメージができた。
「大丈夫そう」と、誰もいない部屋で小さく呟く。ふっと緊張がほぐれた瞬間、汗ばんだ体が急に気になり始めた。バンコクの湿った空気と食事の熱気が影響しているのだろう。シャワーで汗を流すだけではなく、今夜は湯船に浸かって体をじっくり休めたい。バンコクの騒がしさから一歩離れ、この空間で心も体もゆっくりと解放できる時間を持つのも悪くない。湯船にお湯を張り始めると、その音が部屋に静かに響いた。着ていたワンピースを丁寧に畳み、ホテルに備え付けのランドリー袋に入れておく。旅の間でも、細かい気遣いは忘れないようにしている。そうすることで、自分の心も整理されていく気がする。
バスルームの前に立ち、ふと鏡に映る自分の姿を見つめた。少し小さな胸、そしてうっすらと浮かぶ腹筋。それらが、腰のくびれを一層強調している。鍛えてきた体は、今も変わらず自分の自信の源だ。完全ではないけれど、その不完全ささえ今は心地よく思える。仕事の準備も整い、体も準備万端。何も問題はない。湯船にお湯が満ちる音を聞きながら、もう一度、鏡の中の自分に視線を戻した。東京ではいつも、外見も内面も完璧を求められる。でも、ここでは少し肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
ゆっくりと体を沈めると、温かさが一気に広がり、緊張が解けていくのを感じた。ホテルのアメニティで用意されていた入浴剤を手に取り、湯船に溶かしてみる。すぐにふわっと広がる香りが、バスルーム全体を包み込み、甘くも清潔感のある香りが心を落ち着かせた。その匂いに満足しながら、体も少しずつ緩んでいく。自分の胸に手を伸ばしマッサージを始める。自分の体を優しく労わるように、円を描くようにして手を動かしていく。血行が良くなり、体全体に温かさがじわじわと行き渡る。呼吸がゆっくりと深くなり、香りが心の奥まで染み込んでいく感覚。手が胸から腹部に移り、引き締まった腹筋を感じながらも、その周囲を優しくマッサージする。体全体のバランスは悪くない。少しずつ、自分の体に対する感情も柔らかくなり、自分を肯定するような気持ちが湧き上がってくる。「これでいいんだ」と、自分に言い聞かせるようにして、少し微笑んだ。湯船の中で、体も心もゆっくりと癒され、再び落ち着きを取り戻していく。
湯船から上がり、体が温まったままの状態でリラックスした気分で部屋に戻った。明日の予定を思い出しながら、頭の中で一日の流れを整理する。朝は早起きして、さっき見つけた公園でヨガをする。自然の中で呼吸を整え、心と体をリフレッシュしてから、ホテルに戻ってシャワーを浴び、展示会の会場へ向かう。すべてが順調に進むように、準備は完璧にしておきたい。プレゼンの最終確認も終えているし、資料の準備も抜かりない。何度も練習を重ねてきた東京での努力が功を奏していると感じる。これ以上考えすぎても仕方がない、すでにやるべきことは全て終わっている。少し早いけれど、体を休めるためにベッドに入ることにした。バンコクと東京の時差はわずか2時間。時差ぼけの心配はなさそうだし、明日の朝はスッキリと目覚めることができるだろう。
ベッドサイドのランプの下で腕時計をバンコクの時刻に合わせ、スマートフォンと目覚まし時計のアラームを5時半にセットする。東京でのいつもの生活のペースとほとんど変わらないけれど、この異国の地で迎える朝は特別なものになる気がする。早朝のバンコクでヨガをして、自分を整える時間――それが明日の成功へのスタートになる。ベッドに横たわり、柔らかいシーツに包まれると、体が少しずつ重くなっていくのを感じた。
心の中にある東京での慌ただしさが少しずつ薄れていき、代わりにバンコクの穏やかな夜の空気が静かに広がっていく。明日の朝、新しい自分に出会う期待を抱きながら、静かに目を閉じた。



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