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あくあゆの浄土真宗聞法体験記 (6)

法話会に参加して


ズームを使った法話会には一連の流れがあります。

法話会はだいたい月に二回開催されます。事前にテーマが決められ、一週間くらい前に法話の動画や体験談などの資料が参加者に配られます。

動画や体験談を観たり読んだ参加者は、掲示板に書き込みをします。書き込む内容は、先生が何を言いたかったのか、感想、疑問、すでに書き込まれた内容に対してのリアクションなどです。

事前に掲示板でやり取りをすることによって、ズームを使った座談会では短い時間で濃い内容を展開できるというわけです。

座談会が終了した後、座談会の録画がメンバーに公開されます。当日参加できなかったメンバーも録画参加できますし、参加したメンバーも繰り返し録画を視聴することで、内容を整理することができます。

そして座談会が終了した後、改めて掲示板に書き込んだりフェイスブックにたてられたスレッドを利用して話し合うことができます。

今回は私の体験談をもとに話し合う回だったので、もちろん張り切りました。

グループの皆さんの書き込みにひとつひとつ返信していきました。そうすることで自分の書いたものに対して皆さんがどう感じ、どう思われたのかをより理解することができ、自分の頭の中を整理できるように思いました。

座談会で、気付いたことがあったのですが、うまく言葉にまとめられなかったのと、時間の都合で発言できなかったことを掲示板に書き込みました。

あくあゆ : 皆さん、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。

体験記を書かせて頂き、掲示板をチェックして返信する一週間はとても充実していました。

私は今回「煩悩の疑いでない、疑い心なく聞けるというのがわからないと思います」という不審を挙げましたが、こういう思いこそが自分目線なんだなと気付かせて頂きました。

また、座談会ではみんなにはなかなか言いづらいことを正直に話される姿に心を打たれました。

座談会で発表していない思いを書きます。(言うタイミングを失ってしまいました)

それは体験記を書いたり、掲示板に書き込んでいる時から感じていたのですが、座談会に入ってからも少しづつ強くなってきました。

「私は何を偉そうなことを書いているんだろう」

「なんでそんな綺麗事言ってるんだ?本当にそう思っているのか」

「お前の心の中は真っ黒じゃないのか?みんなに良く思われたいんだろう?お前は昔からそうだよな」

このような思いがじわじわと出てきました。

以前はこの思いを掘り下げてダメージを負っていたのですが、

「そうか、こんな思いを持っている私だからこれっぽっちも救われる縁がないんだ」

「そんな私が極楽浄土に生まれて仏に成る南無阿弥陀仏を完成させた阿弥陀様のご苦労って一体どれほどのご苦労なんだろう」

「今の私に阿弥陀様はどんな声をかけて下さっているのだろう」

というように考えてみました。

私には何ひとつできない。だから私にまかせろよと言ってくださっているんだな。それなのに、こんな思いがお前にはあるんだよと教えて頂いているのに手放そうとはしないんだなぁ。

いろいろ見せて頂いたように思います。

頑張れば頑張るほど自分の嫌な面が見えてくるのは、阿弥陀様に頂いた気付きだと思います。この嫌な面、どうしようもない自分は変えることができない・手放せない部分なんだなと気付かせているんですね。

特に私にとって大きな気付きは、煩悩の疑いでない、疑い心なく聞けるというのがわからないという思いこそが自分目線というところです。

この気付きが私の心境を変化させていきました。

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