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8月7日の話

読む人がいるならば、これは下手な物語だと思ってくれていい。
私のこの記憶は今まで一度も文字として記録を試みたことは無く、そして少しずつ変質して、薄れてもきただろうから。

* * *
自分があの日、何歳だったかも覚えていない。

近所に同い年の子供が少なくて、
いても話が全く合わないから、
私は自転車で、少し遠くまで行った。
小学校の学区は越えていただろうと思う。

何故遠出したのか。
親戚の叔父さんが夏休みに田舎に集まった親戚の子どもたちを集めて「昨日、車で連れて行ったスーパーまで歩いて行けたら好きなアイスを買っていい」と紙幣を一番年長の子に手渡した。
車では一瞬で着いたように思えた距離だった、私たちは威勢よく「余裕だよ!道も簡単だ!」と大喜びで提案にのった。
車に気をつけながら、何かあったら近くの大人に尋ねるか、公衆電話を使えと言われ、みんなアイスのために協力し合って、私たちは、思ったよりも遠く長かった道のりを、冒険者気分で乗り越えたのだった。

この成功体験?があったからかもしれない。
私は臆病者の引っ込み思案にも関わらず、あの日、勇気を振り絞ってどんどん知らない道へと風を楽しみながら自転車を進ませていった。

どこでどう出会ったのかはすっかり忘れてしまった。
人見知りの私が、どういうきっかけでその子と話を始めたのかも覚えていない。多分、その子から話しかけてきたのだろう。
普段、見かけない顔が自転車で現れたのだから。

共通話題は「NHKスペシャル人体」だった。
私の親は、「テレビは目に悪い」等の理由で、民放は1日30分しか視聴を許してくれなかった。
だから、ジブリの金曜ロードショーもほとんど見ずに育った。
テレビ番組が共通話題になりがちな小学生にとって厳しかったこのルールには、唯一例外があった。
「NHKスペシャルは勉強になるから、時間制限はナシ」

当時の私にとって貴重な娯楽ともいえる「NHKスペシャル」。その中でも、私は「人体」の世界に夢中になっていた。
でも、同じクラスに同じ番組を見ている子はいなかった。
NHKスペシャルなら見てもいいと言った当の親も興味を示さず、私は感想や感動を共有することに飢えていただろう。

その子と出会い、途中で場所を移動をしたように思う。
他の子たちみたいに自転車で2人で横並びに行った方がいいのか、学校で教わった通り縦並びの方がいいのか、友達ができた(かもしれない)興奮と、帰りの道をちゃんと覚えておかなきゃという緊張とごちゃまぜになりながら、自転車をこぐその子の背中を追いかけた。
到達地点は海辺だった。
夢中で話していくうちに夕陽が波の色を金色に変えていった。

私は門限を守るために興奮の余韻にひたりながら、暗くなり始める前にその子と別れた。
親には必ず「行き先」を告げなければならない。
少し愚痴になってしまうが、一連の記憶に関わる内容なので書き留めておく。
私の親の方針はこうだった。
「誰とどこで遊ぶか事前に教えなさい。外で遊びなさい、その子の家に上がらないように。もし家に上がったら、こっちもその子を家に上げないといけなくなるから。そんなことになったら大変、物は壊されるし盗まれるし」今となってはわからいでもないが、子供には随分と不自由な方針だ。
そして更に厄介なことに、
「遊ぶ子の家族構成、親の職業、家のある地区を教えなさい」

親は「自分の子供に悪い友達ができないように」と気を配っていたのだろう。この方針に素直に従っていた私は、何人かの級友の機嫌を損ねてしまったことが何度もあった。

だから、私はその日、新しくできた友達を失いたくなくて、
帰り道、自転車をこぎながら作戦を練って、私は親に嘘をついた。
念を入れて、日記にも書かなかった。

その後、どれくらいのペースでその子……親友と遊んでいたのかは覚えていない。
親友は、親がめんどくさいからと言って、自分の親が不在のときを狙って私を家に招いてくれていた。
録画のNHKスペシャルを見るために。あと図鑑等も見せてくれた。
親友には弟が二人いて、下の方が時々、私たちがいる部屋の端で大人しく遊んでいたような気もする。
色んな仮説を、空想のような仮説を、私たちは夢中で語り合ったと、うっすら記憶している。
一緒に京都大学に行って研究しよう、そういう約束もした。
私は、京都大学に行くなら、親も、この子の家族構成とかなんか聞かずに、無条件で「友達」として許してくれるだろうと思って提案の大学名に密かに喜んだ。

記憶はここから混濁する。

親友の病名は分からない。
私は生まれて初めて、一人でバスに乗った。
一人ではない、親友の弟がちゃんと誘導をしてくれた。
私が車酔いするので、親には黙っているから酔い止め薬もなかったので、どうしようと言っていたら、「窓際の席に座ったら大丈夫」と励まされ、車内で窓の開け方がわからず、教えてもらっても固くて開けられないのを、開けるからちょっとどいて、とあの子が開けてくれたのは正しい記憶だろうか。

到着した病院はどこだったのか。
それは何年も経過して、私が採用された大学病院の、移転前の病院だった可能性が、去年たまたまその跡地にある石碑を見つけたことで、浮上した。

病名がわからなかったのは、大人たちが私の親友にそれを伏せていたからだ。親友が書きとった薬の名前などについて、調べて欲しいと私は頼まれたが、インターネットもまだ身近ではなかった時代、田舎の本屋で頑張るには限界があった。私の家の近所には、絵本と漫画ばかりの児童図書館しかなった。

死にたくないと、恐れたり、怒ったり。
親友の仮説のひとつ、「生命のランダム」が自分に当たってしまったと、世界を呪う言葉も聞いた。
私も共感して、酷く死を恐れた。

当時、中学生だった私の異変に親はおそらく気付くことはなかっただろう。親は私が小学校高学年の頃から自営業を始め、そちらにかかりきりになって、あまり私の動向を注視する余裕はなかったと思う。

私がその後、病院を何度訪ねたのかはまったく覚えていない。
そのうちに一人でも行けるようになり、病室への行き方も覚えたような。

私と親友には「女に生まれたくなかった」という共通点があった。
女性に不自由さを感じていた。
親友が死んだ日と、私の初潮の日が同日で、
私は「終わった」と思ったこと、これははっきり覚えている。

あと、強烈な印象で記憶に残る曲があった。
自宅に置いてあるNHKスペシャルの録画VHSを見直しても、その曲は流れないから、親友の家で録画を見せてもらったものだろうと思っている。
約束した学科でもなく京都大学でもない大学に進学し、ある程度自由に動けるようになった私は、その「記憶から抜け落ちた番組」を探し始めた。

きっと、その曲が使用されたときの映像に何かがある。
それを見れば、抜け落ちた記憶や、混濁した記憶が元に戻るのではと期待していた。

大学院に進学した段階で、ずっと「取り寄せ中」だったNHKスペシャルのサウンドトラックをようやく入手した。
研究室のPCにディスクを放り込んで、マウスでカチカチと一曲ずつ冒頭を聴いていき、アルバム2つ目、CD3枚目の3曲目でようやく、その曲と再会した。

何年の時を経ただろう、
その曲が一体何だったのかと、親友の死後に探し始めた時からであれば、
中三の夏から、十年以上経過していた。
その年月を一瞬で圧縮されたような衝撃が弾けて、私は夜の研究棟廊下を一人走った。
だけど、記憶が元に戻ることは無かった。

その曲のタイトルは、MEMORIES OF...

まるで作り話のようだった。ずっと、抜け落ちた、混濁した記憶の回復を求めて、強烈に記憶に残る曲を手掛かりにしてきて、その曲名が「…の記憶」。

曲が判明したのなら、その曲が使用された映像を見つけるのは容易だろうと思った。
その曲が収録されていたサウンドトラックは「NHKスペシャル人体Ⅱ脳と心」。放映時期は、親友が入院する前。
家に録画VHSはなかったので、市販のVHSかDVDを探した。

だが、販売はされていなかった。
なんでも、映像の一部について権利者の許可が出ないらしく、販売できないといった情報をコミュミニティサイトで見かけた。
NHK大阪に行って、ブースで視聴を試みたが、そこでも「一部削除済み」の映像で、その曲が使用されている場面は見つけたが「何の印象も残らない映像」という結果に終わった。
その後、DVDは販売されることとなったが、一部削除はおそらく削除のままだ。

ここまで読んでくれた人に私は謝らなければならない。
長々と話したのに、私はこの話を綺麗に終わらせることはできない。

親友がいた。
ポケットベルや携帯電話などを中学生が持っている時代ではなかった。
インターネットも身近にはなかった。
親にも話さなかった。誰にも話さなかった。

今まで、ツイッターでツイートしたり消したりはしたが、
ちゃんと、覚えている限りの時系列で、この記憶を文字にしたことはなかった。

この記憶が、この文章が、事実に基づいているという証拠は何一つない。
あの日見た、夕陽と世界の輝きと、感動を、
知っているのは今、この世界で唯一、私一人だ。

誰とも分かち合えない、共有できない。

語り合った夢も、仮説も、誰も証明はできない。
私一人ではできないと、約束した研究の道もあの夏、諦めてしまった。

誕生日おめでとう、私。
明日8月7日は、「私と親友」の命日。

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