時間差読書会。ジョン・ダワー著、三浦陽一・高杉忠明訳、『敗北を抱きしめて』(上) 岩波書店 2001年‥「日本の読者へ」より
印象に残った文の抜き書き
アメリカにおける、「平和」と「民主主義」
・1960年代から1970年代のはじめ‥インドシナではアメリカの戦争マシーンが異常な乱行にふけっていた...私が日本と日米関係を研究する歴史家になったとき、私の心には戦争と平和、勝利と敗北、社会における正義といった問題が渦巻いていた。
・私のようなアメリカ人が、1960年代と70年代に学んだ「教訓」は何かといえば…いわゆる権威や公式見解なるものには疑いの目を向けること、物事を相対的に見ること、あからさまな人種差別はもちろん、自民族中心主義にも陥らないように注意することであった。
・ヨーロッパでもアメリカでも、たいていの年月、たいていの場所で、「平和」も「民主主義」も「平等」も存在せず、否定されてきた
・ベトナム、ラオス、カンボジアでの事態は、残虐行為とは誰か特定の者が行うものではないことを明らかにした。
日本における、「平和」と「民主主義」
・森喜朗首相が、日本は世界のほかの国や文化と違って、「天皇を中心とする神の国」だという悪名高いスピーチをおこなった。…これは、私が研究者として理解している日本ではない…森首相が述べた「日本」は、精神中の宣伝屋たちが宣伝した「日本」である。
・私の見る「日本」は、画一的でもあるが、同時に複雑で矛盾に満ちた「日本」である。それは私の国アメリカや、私の同僚たちが研究している他の国や社会とまったく同じことなのである。
・もちろん、「平和」と「民主主義」こそ、私自身の国がたたかい取ろうとしている当のものにほかならない。日本人も私たちと同じ夢と希望をもち、同じ理想とたたかいを共有しているのだ。
・戦勝国アメリカが占領の初期に改革を強要したからだけでなく、アメリカ人が奏でる間奏曲を好機と捉えた多くの日本人が、自分自身の変革の筋立てをみずから前進させた
要旨
この本の主題は二つあると思う。
1つめは、終戦後からの日本における、為政者にとっての、「平和」と「民主主義」についてだ。
もう1つは、為政者以外にとっての、終戦後からの日本の「平和」と「民主主義」についてだ。
一言で言うと、為政者たちは「平和」と「民主主義」についての施策を、(細かくは一人一人違うだろうけど、全体としては)戦前と出来るだけ変えまいとした。理想主義だったり、占領政策だったり、いろんな思惑が入り混じったアメリカの司令部が日本の政治について干渉するのに、日本の為政者たちは抵抗した。
市民のほうは、終戦まで抑制されていた自由な表現を、アメリカの司令部による検閲といった一定の制約はありながらも、てんでに発揮し始めた。
もちろんアメリカやヨーロッパで「民主主義」を実践してくるのが難しかったと同様に、戦後の日本社会でも「民主主義」が行き渡ったということではない。それでもアメリカやヨーロッパの人々のように日本人たちも生活の中で各々が「民主主義」を目指して苦闘してきた点においては変わりがないのである。
感想
この本は読む人を選ぶと思う。森元首相が言ったような、天皇が中心だろうと何が中心だろうと、それを囲んで一糸乱れず言動する国を理想とする人にとっては、不愉快な本だろう。
そのような統治だったのを占領軍によって無理やり変えさせられたと思えば、耐えがたい苦痛なのかも知れない。
逆に「天皇を中心とする神の国」の住人として生きるのを強いられていたのが、敗戦によってその縛りが解け、日本人も多様な、異質な人々の寄り集まり‥アメリカやヨーロッパと同様に‥であり、社会で折り合っていくために民主主義を目指すのを肯定する人には、この本は共感できる点が多いのでないか。
いかさまや不正の多い東京裁判、矛盾を孕んだ日本国憲法、米軍基地等々、占領軍の置き土産には首をかしげるものもあるけれど、その施策が戦後の日本社会の全てを決めてしまった訳じゃない。日本人も他の国の人と同様に、与えられた環境をただ受動的に受けいれるのでなく、主体的に価値判断しながら、それぞれの市民がより良い社会にしていこうと努力してきているという社会観に、私は全面的に賛成する。