時間差読書会。ジョン・ダワー著、三浦陽一・高杉忠明訳、『敗北を抱きしめて』(下) 岩波書店 2001年‥第12章 GHQが新しい国民憲章を起草する

本の感想を投稿して、興味あったらコメントをいただいて、というのをnote上でやりたいです。この本について、また私の投稿についてnoteに(他のブログ等でも、もちろん可)書かれたらお知らせください。読ませていただきます。そして、構わなければコメントさせていただくかも知れませんし、それを含めてまた投稿するかも知れません。そうやって、やりとりが続くと楽しいなぁと思います。すぐでなくていいんです。気が向いたときにコメント、1年後でも、2年後でも、それ以上でも。


抜き書き(表現は多少変更)

アメリカが、日本の憲法改正を主導した

1946年3月6日、日本政府自らが手がけたものとして新憲法草案が公表されたが、実際には1週間の秘密会議で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局員が英語で書き上げたものだった。
(補足) 後述するように、マッカーサーは当初日本側に憲法案の作成を任せていたが、ある時点で急に方針転換した。

1946年1月初旬、ワシントンの政策担当者は、日本の憲法体系の欠陥を批判した極秘電報をマッカーサーに送った。
ワシントンは連合国軍最高司令官(SCAP)マッカーサーに、日本の「統治体系」を改革して真の参政権、国民による行政の支配、選挙民を代表する立法部の強化、基本的人権の保障、地方自治の拡大を実現するよう指令した。

マッカーサーは日本の憲法体系を根本的に変えなければ自分たちの任務は全うできないと結論した。
憲法改正の根拠はポツダム宣言のなかのいくつかの漠然とした項目にあった。
第6項「日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」は、将来、政府の権力濫用に対して憲法上の歯止めを確立することを求めたとも解釈できた。
第10項では「日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とされていた。

旧憲法のいかなる修正も日本政府が自ら行うべきであるというのがマッカーサーの当初の方針であり、1945年10月までマッカーサーは、日本側に対して憲法を改正すべきであると、公式・非公式のルートを通じて伝えていた。
公式レベルでは、マッカーサーは二つのルートで憲法改正のための調査を開始させた。

しかしワシントンの政策担当者の考えは一つの点でマッカーサーよりも急進的であり、日本人は「天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革するよう奨励されなければならない」と勧告していた。
(補足)連合国の多くの国もそのような考えを持っていたことが、マッカーサーが民政局に憲法草案を作らせるという方針転換に繋がった。

近衛文麿の憲法改正プロジェクト

まず、マッカーサーは10/4に当時の東久邇内閣で国務大臣を務めていた近衛公爵に、個人的に憲法改正に関する調査研究を実施するよう告げた。
近衛はアチソンとマッカーサーの支持を受け、憲法改正問題を天皇と皇室の庇護の下に移し、個人的に専門家グループを作って調査を開始した。メディアも、憲法の改正は天皇自身によって進められていると伝えた。

しかし憲法改正という重大な問題が、何週間もの間、内閣の権限の及ばぬ所で進められている事実に幣原内閣が憤慨していた。
近衛は10月末の記者会見で、マッカーサーが会談で憲法改正の運動を近衛が指導してはどうかと示唆したことを暴露した。このことは憲法改正が宮中主導で進められているという見せかけを覆した。

また近衛の公的な立場は曖昧であった。つまり日本が中国を相手に「殲滅戦」を開始した1937年に首相だったのは近衛であり、日本が「東亜新秩序」を宣した1938年にも首相であった。その年のうちに近衛は戦犯容疑者に指定された。
11/1にマッカーサー司令部は、近衛のプロジェクトとの絶縁を公然と宣言した。
11月22日に近衛が天皇に上奏した「帝国憲法改正要綱」は、政府の公式文書としてはついに公表されなかった。

ただ、マッカーサーがしばらくの間、近衛のイニシアチブを容認したことは、アメリカが皇室の特権と選挙に基づく政治との間で微妙なバランスをとるような穏健な憲法改正で満足するだろうという誤解を生んだ。

日本政府による憲法修正の試み

幣原内閣は10/25に独自の憲法問題調査委員会を設置し、委員長には吉田外相が強く推す松本烝治をつけた。
幣原、松本、吉田のような支配層にとって憲法を改正するなど、アメリカ人のとんでもない思い込み以外の何物でもなかった。幣原は近衛にも、木戸幸一にも、憲法改正は必要でもなければ、望ましくもないと語った。彼は明治憲法を民主主義的に解釈するだけで十分対応できると考えていた。

つまり明治生まれの特権階級の男である彼らにとって、明治憲法の真髄ー「神聖にして侵すべからざる」天皇に主権が存することーは聖域であった。
また第一次大戦期に議会政治と「大正デモクラシー」が繁栄し、農地改革、婦人参政権、労働組合法、経済の民主化を含めた広範囲な改革政策が明治憲法の下で実施されたのを経験したからでもあった。

委員会には有名法律学者が何人も加わっていたが、連合国側が日本に何を要求しているかを考慮せず、何千万という普通の日本人が何を望むかに全く無関心であった。
例えば、美濃部達吉は委員会のメンバーであったが、アメリカの自由主義思想において決定的に重要とされている人権問題には微々たる関心しか示していなかった。1932年に出版した明治憲法の研究書の五版でも、臣民の権利義務について、わずか27ページしか割いていない。
委員会は、日本臣民の自由および権利は法に他に定めのある場合を除いて侵されないという修正を提案しただけであった。

しかしながら降伏前の日本における人権と自由の侵害はまさしく法によって為されてきたと、GHQでは常々批判されてきた。
ポツダム宣言で特に強調されたのも、基本的人権についてであった。
基本的人権に踏み込まないような憲法案はGHQが受け容れないだろうと、高木八尺は委員会の外から警告したが、委員会は耳を貸さなかった。

2/1付けの毎日新聞に、松本委員会の憲法草案が発表された。

近衛案、政府案以外の憲法改正案

1945秋から1946年3月に、少なくとも14の憲法修正案が提示された。

そのうち、もっとも影響力があったのは大内兵衛、森戸辰男、高野岩三郎といったリベラルで左翼的な知識人で構成された憲法研究会であった。
草案では、主権の所在を天皇から国民へと明文で移し、天皇の機能を「国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」と制限していた。
GHQ民政局は特別な関心を示し、のちに新憲法起草に重要なー役割を果たすラウエル陸軍中佐は民政局長ホイットニー准将に、いくつかの補足を必要とする他は民主主義的で賛成できるとした部外秘の覚書を送っていた。

これらの憲法修正案は、明治憲法にイデオロギー的偏りのあったことに人々の関心を向けさせた。
また日本の将来構想を考える際に、参考とすべき単一の日本の歴史、伝統、文化が存在するわけでもなく、近代における日本の経験は様々に解釈可能だと指摘していた。
このような憲法案を作った民衆のイニシアチブは、旧憲法の擁護者たちが後生大事に守ろうとしているのとは全く違った未来と過去を示していた。

GHQの作った新憲法草案

(補足)2月1日に毎日新聞に掲載された政府の憲法修正案に対して、メディアが反動的だと批判し、世論もこの批判を支持した。

2月1日から3日に、マッカーサーと民政局の側近は、日本政府にはポツダム宣言の要求を満たすような憲法草案を作成する能力はなく、マッカーサーらが指導しなければならないと結論した。
2/1 マッカーサーの部下は、マッカーサーは日本の憲法構造を変更するいかなる措置をもとりうるとの覚書をまとめた。
2/2 マッカーサーは民政局に、日本政府を指導するための修正事項をあげるよう指示した。
2/3 マッカーサーは詳細な憲法草案を作って、日本の頑固な役人たちを指導した方が良いと判断した。

憲法の改正案は3つの原則に基づいて起草された。
1. 天皇は国家の元首である。天皇は世襲とする。天皇の職務と権能は憲法に表される国民の基本的意思による。
2. 日本は自国の安全を保持する手段としての戦争も放棄する。あらゆる交戦権は、いかなる日本軍にも与えられない。
3. 封建制度を終える。貴族の権利は、皇族を除いて現在の一代限りとする。華族の地位は今後独自の政治権力を伴わない。

マッカーサーがこの時点で部下に憲法草案を作らせることに方針転換しなければならなかったのは、天皇制を守るためであった。
マッカーサーは、皇室は二つの方向から大きな脅威にさらされていると考えており、
一つには高野や共産党の憲法草案に表された共和思想が時とともに強力になるだろうと思われた。(政府の憲法修正案の仕上げ頃に行われた調査では、天皇の地位の変更を希望しない者は16%であった)
二つめとしては、連合国には天皇に強く反対する国々があり、近いうちに憲法改正の諸条件に干渉するようになる筈であった。1月30日にマッカーサーは、極東委員会の発足のために準備していた諮問委員から、憲法改正の進捗状況を尋ねられている。極東委員会が活動を開始した直後に、連合軍4カ国からなる対日理事会が東京で活動を開始する予定であった。それ以後マッカーサーは、憲法改正に関して対日理事会のいずれかの構成メンバーの異議があればそれに服さなければならないとされていた。
マッカーサーは極東委員会が活動を開始するまでに憲法草案を公の討議にかける必要があった。

GHQ民政局の憲法制定会議が招集された。
メンバーたちは、より圧制の少ない社会、大多数の日本人が望んでいたにもかかわらず、日本の指導者からは得られなかったもの、を創造する手助けをしていると信じていた。例えば、メンバーの一人であるユダヤ系女性、ベアテ・シロタは日本で少女時代を過ごし、個人的な体験から日本人女性が法律上も結婚生活においても迫害されていることをよく知っており、並々ならぬ関心を持っていた。
また他の部下はマッカーサーの三原則をより具体的に、天皇は国民の統合の象徴であると、書き改めた。
マッカーサーは起草中の憲法案を、日本政府に対してだけでなく、アメリカ議会の政策決定機関や占領軍司令部内の修正に反対する者たち、極東委員会に集結しつつある連合国の多くの国々にも秘密にしていた。

2月11日、マッカーサーは草案を日本政府に提示することを許可した。

感想

まず第一に思ったのは、日本国憲法が出来上がるまでの経緯について全く知識がなくて、アメリカ人の書いた本によって知るなんて不思議だよなぁと。
高校で日本史はとらなかったけど、中学まででも習った記憶が全然ない。
事実がこの通りだとすると、政府がというか、政府案があまりに恥ずかしいから、あえて教えないのかとさえ思う。

そして、ベアテ・シロタさんはじめ、草案作りに携わった民政局の人たちの善意によって私たちの基本的人権を守る根拠が作られたのだなぁと感動した。
本当に有難い贈り物だと思う。

あと99%の側である私としては、力を持ってる支配層の考えでなく、外国からの頂き物という形で、被支配層の考えに沿った憲法になったのがスゴい喜ばしい、ラッキーだ。
逆に、だから以前からの支配層が憲法改正したがるのかと、少し納得だ。
支配層じゃなさそうな人が、自分のクビを絞めることになる憲法改正を何で支持するのかは謎という他はないが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?