【小説】人を感動させる薬(9)
(前回)人を感動させる薬(8)
ジェイ編集がエル氏に本当のことを告げたのは、単に頭に血が上ったからという理由だけではない。
今後これ以上、『人を感動させる薬』に頼ることができないことがわかっていたからだ。
例のテレビ放送の日のかなり前からエル氏の三作目の小説は、その知名度の伸びとは裏腹に売り上げが頭打ちになってきていた。
小説の売り上げはその知名度と共に右肩上がりに増えていくのが普通だが、明らかに売り上げの推移がおかしいため、ジェイ編集はこのことをレポートとしてまとめ、ケイ博士に報告しに行った。
ケイ博士によると、世間の人たちが『人を感動させる薬』に耐性を持ち始め、だんだん効かなくなってきたのではないかとのことだった。
実際、ケイ博士が彼の奥さんに協力してもらい、本を読んだりテレビ番組を見るときは近くにフタを開けた薬のビンを置いてもらったところ、最初の一週間ほどは感動する様子が見られたが、ある日突然、ぱったりと薬が効かなくなってしまったとのことだった。
そこでケイ博士は薬の濃度を上げてみたのだが、やはり三日とたたないうちに薬は効かなくなってしまった。
この現象は実のところジェイ編集も実感していた。
エル氏の三作目の単行本が刷り上がった当初は本を開くたびに涙が止まらないほど感動したが、二度、三度と読み返すうちに当初ほど感動しなくなってきて、今では読み返してもまったく感動しない。
このことを感じ始めたころはまだ小説の売り上げも右肩上がりで、ジェイ編集はエル氏の小説の本来のつまらなさを知っている自分だけに限定された現象なのではないかと都合よく考えていた。
しかし、最近の売り上げの減少、そしてケイ博士の奥さんの協力による独自実験の話を聞いて、薬はそのうち誰にも効かなくなるという確信を持つに至った。
ケイ博士が言うには、エル氏の次回作の単行本にこの薬を仕込んでも、きっともう今回のようなヒットは期待できないだろうとのことだった。
「結局、この薬でいい思いが出来たのは後にも先にも君たちだけになりそうだね。」
というのがジェイ編集の報告を受けたケイ博士の評価だった。
今後世の中の人々に対してケイ博士の薬の効き目がなくなるのは間違いないことから、これ以上薬の存在を秘密にする必要はないとも言われた。
もう、薬のことをエル氏に隠す必要はなくなったのだ。
(つづく)
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