【小説】人を感動させる薬(1)
「叔父さん、例の薬は用意できていますか。」
叔父のケイ博士の研究室をたずねたジェイ編集は開口一番こう尋ねた。
「叔父さんではない。
ケイ博士と呼びたまえ。
ほら、そこに置いているよ。
私としても自信作だ。
しっかりモニターを頼むよ。
報告書を期待しているからね。」
ジェイ編集は中堅の出版社に勤める編集者である。
叔父のケイ博士が『人を感動させる薬』を発明したことを親戚づてに耳に入れ、是非とも自分の担当する小説家の単行本の出版時に薬の効果を試したいとモニターを名乗り出たのだった。
その薬は液体で、ウイスキーボトル一本分くらいの大きさの遮光ビンいっぱいに入っていた。
「叔父さん、いやケイ博士、これはどういう風に使うんですか?」
「そうだな、本であれば印刷するときのインクに混ぜたり、映画館なら映画館いっぱいに香りを噴霧したりして使うといい。
ほんの少しの量でも強い香りが出て、とはいっても人間には知覚できない香りなのだが、その香りを吸い続けていると数分で強い感動を引き起こすようにできているんだ。
どうだ、すごいだろう。」
「本当にそんなことができるんですか?
とても信じられないなぁ。」
「ふん、うたぐりぶかいやつめ。
そう思うなら試しに隣の部屋でそのビンのキャップを開けたまま、新聞紙の経済欄でも小一時間読んでみるといい。
今日の朝刊の製薬会社合併の記事ですら涙なしでは読み切れない感動の名作に早変わりだ。
私は他の仕事があるからドアはちゃんと閉めて行ってくれよ。
私まで感動で涙が止まらなくなってしまったら、今作っている『どんなものでもものすごくおいしく感じる薬』の合成の邪魔だからな。」
「わかりました。
それじゃ早速試してみます。」
「それより、本当に他人に気付かれないようにばら撒くことができるんだろうな?」
「もちろん、そこは任せてください。
うまくやってみせますよ。」
ジェイ編集はケイ博士にウインクすると早速研究室を出て隣の部屋へ移動した。
来客用の椅子に腰をかけるとキャップを開けた薬のビンをテーブルに置き、テーブルの上に読み捨てられた新聞紙を手に取り読み始めた。
読み始めてしばらくはなんともなかった。
しかし、普段なら飽きて新聞紙を放り投げてしまうようなつまらない記事でもなぜか読むことをやめられなくなり、気がつけば感動のあまりジェイ編集は涙が止まらなくなっていた。
「製薬会社合併の記事がこんなに感動の嵐を呼ぶなんて、いったいどういう事だ!」
ジェイ編集は感動の余り声を上げて泣いていた。
隣の部屋からケイ博士の声が聞こえた。
「どうだ、すごいだろう。」
「素晴らしいです!
新聞の記事でこんなに感動したのは初めてです!
博士!あなたは天才だ!
そしてこの新聞記事を書いた記者も!」
「わしは天才だが新聞記者は別に天才ではないと思うぞ。
とりあえず君がその薬の威力を思い知ってくれたようでよかった。
大いに役立ててくれたまえ。
もちろん、効果のほどはしっかりレポートとして報告してくれよ。
それがその薬を譲る条件だ。」
「わかりました!ありがとうございます!ありがとうございます!」
「いいから、君もいつまでも涙と鼻水垂れ流しのままじゃ困るだろう。
いい加減ビンのキャップを閉めたまえ。」
ジェイ編集がビンのキャップを閉めると、徐々に薬の効果は薄れ、しばらくするとさっきまでの感動は嘘のように消え去っていた。
「はて、さっきまで感動していた心地よい感覚は今でもはっきり記憶に残っているのだけど、自分はいったい何に感動していたんだろう。」
とは思ったが、なにはともあれ、この薬の効果は本物だ。
こいつが上手くいけば、ジェイ編集の担当する彼の作品も大ヒット間違いなし、ジェイ編集自身も売れっ子小説家を生み出した編集者として編集長から一目置かれるようになるに違いない。
(つづく)
次回 人を感動させる薬(2)