理想のキッチン探し⑰挫折
理想のキッチン探し、物件見学の旅はいったん終了です。私が恋してしまった野方の物件は断りました。不動産屋さんに、「決めます」と電話して初期費用の見積もりを出してもらった日、夫が「野方かあ」と言いながら、ユーチューブで野方を検索して動画を見ています。「野方かあ」また言います。何か含みがあるようです。「どうしたの?」と聞くと、「いや」と言いながら、踏み切れない理由を説明します。
一つは、古い物件であること。窓が多いということは、冬寒くなりやすいということです。今の建物のように断熱も十分でないでしょう。エアコンを後付けした洋室の窓には、隙間ができています。そこを直しておいて欲しい、と言ったら不動産屋さんから「そちらの責任で」と返されました。窓の建付けも悪い。耐震基準も昔のものです。丈夫そうな建物ではありますし、地盤もしっかりしていると思われますが、古い建物はどこにどんな落とし穴があるかわかりません。配管も古くなっていて、水道が詰まるなどの不具合が生じる可能性もある。しかし、家賃交渉をいっさい受け付けない大家さんと、事前に不具合を直そうとしない、そして実は部屋の面積も86㎡でなく83㎡で、全室証明完備の情報も間違っているなど、頼りにならない不動産屋さん。おそらく何かと頼まなければならないことが、いくつも発生するのにそれらを全部自前でやる、あるいは交渉に時間がかかる部屋に、安心して暮らせるのでしょうか。そうした危惧を夫は話してくれました。
また、この2カ月、もう少しで決まりそうになりながら、どうしても気になるポイントがあって決められないことがくり返されてきました。見た物件は14件に及びます。夫は行けなかった日もあるので11件。真夏の暑い時期に空調なしの内見にも疲れました。リモートワークで人に会う機会や出かける機会が大幅にへっていたこともあり、夫は若干うつっぽくなっていたのです。
「どうしても踏み切れない」と夫。私はなんだか涙が出てきました。何しろ野方の部屋は、まるでドラマや雑誌のロケにでも使いそうな、とても素敵な部屋だったんです。「環七に近いあの部屋は、実は空気も悪い」と言われれば、実はそこに思い至っていた自分を思い出します。舞い上がって大丈夫だ、と思った車の騒音も実は暮らすと気になるかもしれません。でも、と私は思い返します。昔、最初の部屋が騒音のため眠れなくなったこともあって、引っ越した後間もなくうつが深刻になった自分のことを。夫にはゆっくり休む時間をつくって元気になって欲しい。
「やめよう、じゃあ」と私は言いました。それだけ具体的に危惧している点を挙げられると、どれも否定できないからです。そして、手間をかけお金をかける意味が、本当にその部屋にあるのか、と考え始めました。
翌朝、降り続いた雨が止み、季節は秋に移っていました。すると、まるでつきものが落ちたように、私は野方に行く気を失っていたのです。冷静になったら夫の言う通りです。私も不便さ、大家さんが倒れなさそうな不安に、実は気づいていたことを思い出したのです。恋は冷めました。
そして、仮契約をしていた港北のURにも行く気がなくなっていました。夫は今、環境を変えないほうがいいと思いました。そして、その日もくり返し話し合い相談しました。夜になり、久しぶりに浴槽にお湯をため、ゆっくりお風呂に入ると、ふと思い出しました。
今回の物件探しのきっかけは、私が将来住み替える話を始めたことです。部屋にどんどん私の資料が増え、今書いている本に使っているレシピ本と合わせて、ボックス類9個分も寝室の横のリビングに積み上がっているのを見ていた夫が、すぐに乗ってきたことでした。私はもう少し貯金をして、物件を買うことを考えていました。中古ならあと少しで可能になります。何しろ私たちはフリーランス。夫は教師として所属している学校もありますが、何しろ55歳。「ローンは組めない」と夫は言います。だからまず貯金。中古物件を買い、キッチンを理想の形に近づける。本棚も確保する。
これまで14件見てきて、特に民間の賃貸住宅では、理想のキッチンを実現することが難しいことがわかってきました。家賃をもっと払えればあるのでしょうが、その家賃を払うお金がもったいないようにも思うのです。生活の余裕もなくなりますし、本を必要に応じて買うのに躊躇するようになるでしょう。コロナ明けには、仕事仲間や友達とおいしいものを気軽に食べに行く約束がいくつも控えていますし、きっと交際も増えるでしょう。でも、家賃が高ければそうした約束をするのに躊躇するようになる。
そして、東京の賃貸住宅につきものの、2年に一度の更新の際、かかってくる更新料と更新手数料、これがずっと納得がいきません。更新の際書類をつくるぐらいの不動産屋さんがなぜ、手数料を取るのでしょうか。2年ごとに家賃1か月分払うのも、本当に必要でしょうか?
港北ニュータウンは、これまでに3度も行こうとして決定しきれなかった。それは私が、文化的環境を見つけられなかったからです。センター南の駅前しか知らないのに、決めつけはよくないでしょう。知り合いの知り合いもいます。でも、街の魅力を見つける時間がなかった。物件をどうするかの決定はすぐにしなければならないのです。
リノベをするなら、もっと勉強しなければなりません。そして、がんばって働き、がんばって貯金をしなければなりません。その前のワンステップとして引っ越し、とも考えていたのですが、何だか気持ちが引いてしまった。魅力的な街をいくつも見てしまい、今の街の魅力も再発見してしまった今、港北には行けません。それより引っ越しにかかるエネルギーとお金、そしてやがて無駄になる家具を買うのはもったいない。そう考えるに至りました。
当分、大好きな今の街にいます。そして、部屋を整理して収納力を増し、今の暮らしを整えながら準備していきたいと思います。というわけで、理想のキッチン探しの旅は当分続きます。そして、勉強を重ねていきます。
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