見出し画像

理想のキッチン探し⑮馬込

 9月2日の木曜日、センター南の駅で夫がこれから行くと電話し、次の町へ移動します。横浜市営地下鉄グリーンラインで日吉へ出て、東横線に乗り換え、自由が丘で大井町線に乗り換えて旗の台へ。この物件は夫がどうしても観ておきたいというのです。

 マンション形式で恐らく鉄筋コンクリート、3階建ての1階部分が貸しに出していて2階以上は大家さんが住んでいます。96㎡もあり、間取りは2LDKですが、カウンターキッチンの上には袋戸棚、3口ガスコンロ、シンクも大きくキッチンの後ろにも十分なスペースがあります。リビングダイニングの空間も広い。そして何しろ敷地面積が広いので本棚は置き放題です。

 「でも馬込……」と私は躊躇します。実は私たち、ずーっとこの22年、洗足池を中心に暮らしてきました。日蓮上人が足を休めたというので洗足池、風光明媚なことから勝海舟が住んでお墓も洗足池の敷地内にある。1月の梅から始まり、桃、桜、つつじ、あやめ、シャガ、山吹、紫陽花など四季折々の花が楽しめる。この場所に私はどれだけ救われてきたことか!うつが大変で寒さで凍り付きそうになっていたときも、いち早く咲くここの梅の美しさと香りに癒されてきた。生きていいんだ、とまで思ったんです。

 今年の春、ある夕方に散歩したら、今まで一度もこの公園で聴いたことがなかった鶯の声が響き渡っていました。カワセミはよく来ていて、アマチュアカメラマンのおじいさんたちがキャノンの白レンズを構えて、「あそこにいますよ」なんて教えてくれることもあったけど、鶯はいるなんて知らなかった。多いときは毎週歩いていたのに。あの公園中を声が覆うような美しい声を聴き、何か祝福されたような許されたような不思議な気分になりました。

 物件を探し始めてしばらくして、近所で出た123㎡という物件が、どう考えても危なっかしく負担が大きい小さなコンクリートの階段を降りる難しい家だったこと、その直後、もう一つ出た物件があと1万円が出なくてあっという間に他の人に持っていかれるという体験をして、この辺に住み続けることを諦めました。

 そこからはむしろ、東京のほかの地域、あるいは横浜など土地勘はないけれど新しい土地に住むことで、新しい世界が開ける可能性に目を向け始めました。まったく違う地域に住めばよく行くところも変わる。その変化がずっと怖かった。でも、せっかく東京に来たんだからもっと多彩な体験をしてみたくなったのです。うつがかなりよくなったからかもしれません。新しい世界を観たいのです。

 ところが馬込は最初に住んだ地域のすぐ近く。最寄り駅は西馬込で住所は中馬込でした。馬込駅前は「何にもない」記憶でした。すぐそこに環七と中原街道。西馬込も最近でこそ、ちょこちょここじゃれた店ができていますが、私が住んでいた時は、駅前のメゾン・ド・プティフール以外に魅力は何もなかった。そして、何にもない感じと買い物の行き先が東急ストアしかない不便さ。東急ストアは割高なのに生鮮食品の品ぞろえが少なかったのです。商店街のある町がいいと願い続けて、その後2回の引っ越しでは、商店街が機能している町に行ける場所に住んできました。

 「だって馬込何もない!」と強弁する私に、夫は「近くにライフがあるで。オオゼキもあるし、電車は都営浅草線馬込駅の他、湘南新宿ラインが止まる横須賀線の西大井駅も使える。東急大井町線の荏原町も使える」というのです。確かに自転車でそれぞれ数分でスーパーがあります。

 悩んでいる間に物件に着きました。玄関前に大きな高級車が3台も止まっています。自転車は1台ならその間のやっと通れる道を通って階段を二つほど上がった共有の駐車場に置けるとのこと。もう1台は広めの玄関に置くしかないです。

 キッチンは予想通り広かった。ちょっとエレガント風の扉があり、使いやすそうなシンク、お手入れしやすそうなコンロ。上にも収納があり、床下収納は横3列分もあります。床下収納はしかし、出し入れしにくいし、湿気がこもりやすいと聞いていますので惹かれません。蛇口も立派です。

画像1

 その部屋には設備が全部そろっていました。照明とエアコンはすべての部屋についています。でもその照明が、アールデコ調のデイジーのような花が開いたデザインのものになっていて、ダイニング側とリビング側に頑丈そうについています。後で不動産屋さんに確かめていただいたところ、根元から取り付けてあるので取り外しは不可能とのこと。カーテンもLDだけはなぜかついていて、エレガント風の淡い小豆色の花柄です。きれいなのはわかる、好きな人がいるのもわかる。でもおばあちゃんっぽい。私の趣味ではまったくない。

 大家さんは私たちと年が近い50代とのことなので、恐らくご両親が1階に住んでおられたのがホームに移るとかされたのではないでしょうか? お金持ちの上品なマダムが使っていた風景が目に浮かびます。

 夫がこの物件を推した理由の一つは、前から出ていたけれど、最近急に2万円も下げてきたから、とのこと。格安家賃なんです。下げたら急に問い合わせが増えた、と不動産屋さん。

 1階なので、当然窓からの景色はつまらない。つい先ほどまで丘の上にある港北ニュータウンのマンションで、街を見下ろしてきたところなので、すごくギャップがあります。家の壁が見える窓、植栽を隔てて道路が見えている窓しかないのです。でも、今の部屋はリビングの前のベランダが、隣のマンションのベランダが目の前にある。引っ越したばかりの頃、洗濯物を取り込もうとしていたら向こうの奥さんっぽい人が出て来たので挨拶したら、無視されました。以来6年間、そのベランダで誰かを見かけることはありません。そして、毎日判を押したように7時頃、その奥さんの「おねがいしまーす!」と張り上げた声が聞こえる。たぶん子供たちをお風呂に入れていて、お母さんか誰かに子どもを託しているようです。去年の学校休校時は、ヒステリックに子どもに算数を教える奥さんの声が響き渡っていました。

 馬込の物件は窓と窓が向き合っていないから、今よりはプライバシーが保てます。広い納戸もあって、玄関ホールも広くて、本棚置き場は十分あると思いました。そして使いやすそうなキッチン。きっとおばあさまは料理が好きだったんだろうなと思います。

画像2

 でも馬込。でも見晴らし悪い。いや、都会に住むならそのことは許容範囲にしなければなりません。私がこれまで住んできた部屋は、富士山がたまに見える中馬込以外全部、隣の建物がすぐ横にありました。中馬込はしかし、面していた道路が環七と中原街道の抜け道にあたり、多過ぎる交通量で不眠症になり、他の要因もいくつもあってうつへとまっしぐらに進んだんです。

 夫がどうしても観ておきたかったから、というので観に行ったのですが、実は明日、別の町で見る予定の物件があります。それを夫は私が気に入りそうと言っています。古い物件です。写真と間取り図を見たけれどいいかどうかまだわかりません。そして、私たちは再び時間切れです。来週以降は見に行く時間がどうしても工面できません。明日までにこれというものが見つからなければ、私たちは引っ越しをまた先に延ばし、来月以降にまた物件探しの旅を始めなければいけないでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?