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霊柩車をエレキギターと聴き間違え、葬儀を沸かせた父が、呆けてきた。

この七月、子供の誕生日とわたしの誕生日の間のある日、末っ子の弟が天に召された。

お葬式は家族だけ。

わたしは泣かなかった。死ぬことが悲しいことだと思ってないのだ。

弟は弟の人生を十分生きた気がする。
彼とは仲良くなかったけど、幼い頃の面影と理由のない感謝だけが残る。

母は静かな涙の海に浸かっていた。
海といっても、バスタブくらいのサイズ感。

父は涙は流してなかったが、泣いてないのか、それはわからなかった。
なぜか葬儀や弟と関係のない話をよくしていた。
式の前の段取りの話の中で、上の弟が、
「お父さんは霊柩車に乗って行く?」とたずねたら、
「なにぃ?エレキギター?」と父は聴き間違えて、家族から笑いをとった。

式の後、父とわたしは喧嘩した。
子供が、学校に休みの届けをわたしが出さなかったことを言ったとき、父の怒りがここぞとばかりに生き生き動き出した。
「そんなんだから、お前はダメなんだ!」と一喝。
子供がお葬式の日は学校休みだから、ということで連絡しなかっただけ。
しかし唸り止まない小言、ついにわたしは楔を打った。
「お父さんだって、いっぱい間違える!」
「出てけ!」と父は怒鳴った。
わたしは離婚後、実家の持ち家に住んでいた。
「出てけ!」わたしは思わず鸚鵡返しをした。
「バカ!」また父は怒鳴る。
「バカ!」と、また鸚鵡返し。

父はいばりんぼうだけど、間違えることを内心とても恐れているのだ。
失敗や未知をとても恐れている。
わたしもそうだから、父の気持ちがわかるのだ。

それから、しばらく実家から遠ざかった。
父母それぞれに悲しみと向き合う時間がとても必要、と感じた。

昨日は弟の四十九日。
しかし、お墓が決まらないから、と言って、お坊さんを呼ばないし、戒名もつけない。宗教の行事は長い間の知恵だと思うから、自分がお金出すし、御坊さんも探すから四十九日をやろう、と言ったけれど、実家はそうしてほしくないと言う。
わたしは仏教やお葬式のスタイルに明るくないが、弟は父母は亡くなったら、仏式を全部きっちりやり通すだろう、と思う。

それでも、家族集まって、近所の和食レストランで食事をした。
父と久しぶりに会った。母の言う通り、だいぶ痩せてやつれていた。

もう1人の弟家族が乗ってきた車の話になった時、
「車は、マンションの〇〇さんのところに停めればいいよ。今使ってないから。なに、絶対大丈夫だ」と父は自信たっぷりに言った。
家族が口々に、人様の駐車場に無断で停めるべきではない、と制したけれど、「絶対大丈夫」を繰り返す。
父は少し呆けていた。向かい合っていても遠くを見るような目つきをする。
これが弟の死のショックなのか、年齢的なものなのか、一時的なものなのか、進行中のものなのか、わからない。

「これから、お父さんと話す時は、事実と思いを分けて話そう」
母や子供に伝えた。

わたしは、父がはんぶん死んでいるような気がする。

死というものは、父にとって、恐れるべき未知なるものだ。
誰にとってもそうなのだが、父は未知を誰よりも避けようとする。

弟の死によってこの世界は、父にとって未知なる異世界となった。
その異世界に呑まれ、はんぶん鈍くなっているのだろう。
その異世界は幻。
だけど、脳の中で、その不安感は本物なのかもしれない。

わたしも父と似たポンコツだから、やはり自分で幻を作る癖はあるだろう。

さあ、起きろ、幻から目を覚まさなければ。

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