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脳卒中を発症し右半身麻痺になったあの日から2年を迎えました。

2022年7月6日、あの日もとても暑かった。
まだ梅雨だというのに雨傘ではなく、日傘を持ってうちを出る。

仕事が終わり電車に乗る。
いつも通りその日の夕飯のことを考えていた。
帰りの電車を降りてすぐ、倒れるなんて思いもせず。

駅につけば、うちまであと5分。
なのにそこから、7ヶ月半帰れなかった。


「脳卒中」という病に倒れる

今日は2024年7月6日。
梅雨は何処へ?という、連日30度超えの猛暑日が続いている。

2年前の今日、わたしは脳卒中という病気で倒れた。
自分がこの病気になるまで、恥ずかしながら脳卒中がどんな病気なのか、よくわかっていなかった。

小学生の頃、祖父が脳卒中で亡くなり、自分が倒れる数年前には、母が脳卒中で入院したにも関わらず。祖父はくも膜下出血、母は脳梗塞、わたしは視床出血だった。

あらゆる脳血管疾患の一つが脳卒中で、脳卒中は脳に血液が流れなくなることによって脳の神経細胞が壊死する病気全般を示す。脳卒中がさらに「脳梗塞」「脳出血」「くも膜下出血」などに分類される。

わたしの病名は「左視床出血」。よって出血部位と反対側、右半身に麻痺と痛み、感覚異常などの後遺症を負った。

そもそも前兆はなかったのか?

脳卒中というと、頭が痛いとか、手が痺れるとか、呂律が回らないとか、持っているものを落としてしまうとか…そんな前兆があったという話をよく聞くが、わたしの場合は全くなかった。

まさに青天の霹靂とはこのこと。ある日突然血管が切れ、出血し、左脳の神経細胞が壊死し、中途障害者になった。

コロナ禍で外食や飲みの席も減り、子どもがいるので基本毎日自炊だし、お酒は1日缶ビール350を1〜2本。寝不足と運動不足は否めないけど、特段不健康な生活を送っていたわけじゃない。

不摂生をしていても病気にならない人はならないし、健康に気を遣っていても病気にかかる人はいる。

こればっかりは、仕方ないね。


入院生活が楽しかったこと

入院生活が辛くて早く退院したい…
という人の方が多いので、あまり大きな声で言えないのだが、実は7ヶ月間はわたしにとってさほど苦痛ではなかった。

いや、むしろ楽しかった。

コロナ禍だったので、家族といえども面会は絶対NG。
回復期病棟では、月1度だけ主治医による家族への説明があり立ち会えたが、ゆっくり話す時間もなく。

子どもたちとは電話で、友だちもたまにLINEで連絡を取るくらい。
外とのつながりはその程度だったけど、朝6時に起きて21時の消灯まで毎日忙しかった。

1日3時間、療法士さんとのリハビリに加え、起きている時間はひたすら自主的にトレーニング(自主練習)をしてた。朝食前、昼食後、夕飯後も病棟内を杖と装具でぐるぐる歩き、入院中にも関わらず最後は1日1万歩を超えていた。ストレッチ、筋トレ、ステップ練習、手のリハビリ。昼寝をしたりTVを観てる暇なんかなかった。

自主練以外にも、洗濯は自分でしていたし、リハビリも兼ねて院内のコンビニに買い出しに行ったり。気がつけば、1日はあっという間に過ぎ、7ヶ月もあっという間だった。

退院後の2年もあっという間。

この2年の生活と意識の乖離

入院中もそうなんだけど、わたしは毎日をただ淡々と過ごすのが、そんなに苦痛じゃない人間だということに気がついた。むしろイレギュラーなことが苦手で、事前に決められた通りに過ごしたい。

むかしから、約束も事前に時間と場所まで決まっていないと落ち着かないし、自分が待たされるのはいいけど、人を待たせるのはイヤ。

そんな性格なので、月〜土曜は朝5時に起きて娘のお弁当作りから始まり、通所リハビリ、自費リハビリ、かかりつけ医、鍼灸院、美容院、この辺の予定をぐるぐるとこなしていると1日、1週間、1ヶ月あっという間に過ぎていく。

あとは…
これはまだ誰にも話したことがないんだけど、2年前倒れてからというもの、なんとなく現実味が薄いというか、ここにあるわたしという存在の実感がイマイチ湧かない。うーん、なんて言っていいか、上手く説明がつかないのがもどかしいが(それもあって話せない)。

なんでこんなことになっちゃったんだろう…
みたいに悲嘆に暮れるわけでもなく、泣いても過去や現実が変わるわけじゃないし、そこは淡々とあるがまま受け止めて毎日を送っている

わたしはわたしで、生きているし、実際日々生活はしているんだけど、意識と体が乖離し、第三者として客観的に傍観する自分もまた存在している、というか。うーん、やっぱり説明が難しいからいいか(苦笑)

あ、解離性障害とかではないのでご心配なく。

障害受容について

障害を負った人が、その障害に向き合い、障害を受け入れ、障害とともに生きることを「障害受容」と言う。

① ショック期
自分に何が起きたか理解できない

② 否認期
自分の障害を認めようとしない

③ 混乱期
怒り、悲しみ、抑うつなどが現れる

④ 努力期
障害に負けずに生きようと努力する

⑤ 適応(受容)期
自分の障害を前向きに捉えられるようになる

障害受容にはこのようなプロセスがあるらしい。

わたしの場合、目が覚めた時、、「あー、倒れたのか」「右手足動かない」「感覚もない」と冷静だったし、手を持ち上げても離すとぶらーんと落ちる様を見てなんだか面白く、何度も持ち上げては落としてみたり。ショック期というより、観察期という感じかな。

とはいえ、倒れた直後はまだ意識が朦朧とし、あまり深く考えられなかったのと、自分がなんの病気でそうなったのか知らなかったし、まあ3ヶ月くらいで「治る」んだろうと高を括っていた。

その後そうではないと知り、「なってしまったものはしょーがない」と回復期病棟に行ってからは、より一層リハビリに精を出すように。

観察期→④努力期という感じで、① ショック期、② 否認期、③ 混乱期はなかった。

⑤ 適応(受容)期についてはどうなんだろう。

これって「障害のあるわたし」をわたしが受け入れられるかじゃなくて、周りの人たちが受け入れられるかじゃないのかなあって思うんだけど。

確かに以前のわたしと比べて、手足が動かなかったり、話し方がおかしかったり、目に見える障害見えない障害いろいろある。でも「わたしはわたし」なわけで。何も変わらない。

中途障害だと、受傷前・受傷後の「像(イメージ)」が違いすぎると感じる人もいるみたいで、まったく音信不通になった人もいるし、会うと悲しいし辛くなるから会いたくないと人づてに聞くこともある。

以前のエネルギッシュでバイタリティーに溢れたイメージが強ければ強いほど、障害のあるわたしの姿は受け入れ難いのだろう。

当たり前の毎日に、家族に感謝

そんな中、やっぱり家族やパートナーはすごいなぁって思うのは、障害のあるわたしをすんなり受け止めてくれた。障害があってもなくても、わたしはわたしなのだ。

特に子どもたちに関しては、倒れる前となんら変わらず。腫れ物に触るようなそぶりを微塵も見せず、もう少し気を遣ってもいんじゃない?(笑)っていうくらい、退院当日から通常運転だった。

おかげで家事はなんでもできるようになったし、右手が使えない分、左手はずいぶん器用になった。

今は、大概のことは自分一人でできる。たまに家族やパートナー以外と出かけると、悪気はないけど視線が痛い時がある。「できるかな〜」と、じっと観察されているというか。

「やろうか?」と手を出しながら言われると、内心(時間はかかるけどできるのになぁ)と思いつつ、なんだか惨めな気持ちに。そんな時は決まって子どもたちが小さかった頃を思い出し、自分の子育てを反省するのだ。

「ママがやるから貸してごらん。」
きっと子どもたちの自尊心を傷つけてたんだろうなあ。反省。

そんな親に育てられたにも関わらず、子どもたちはほんといい子に育ってくれた。

当たり前の日常があることは当たり前じゃないし、家族やパートナー、友だちには感謝しかない

障害の状態について

脳卒中で右半身麻痺(右片麻痺)という障害を負ってから2年。
この障害は、脳神経が壊死して起きているので、「治る」ことはないし、元には戻らない。

相変わらず、足には装具、手には杖がないと、体感麻痺もありグラグラなので危なくて歩けない。

字が書けないし、パソコンのキーボードも打てないし、お箸もちゃんとつかえないし、コップも持って飲めないし、できないことはいまだにたくさんある。

右手足が動かないだけじゃなく、高次脳機能障害もあり、運転もできなくなったし、言葉がスムーズに出てこないので会話がうまくできず人と話すのが苦手になった。

とはいえ、できなくなったことを嘆いても仕方ないし、工夫すればできるようになったことや、左手がずいぶん器用になったことで助けれれてる部分もある。

自主トレも懲りずにあいかわらずやっている。
あーでもない、こーでもないと、仮説と検証の繰り返し。PDCAを回しながら、三歩進んで二歩下がりつつ、たまーにブレークスルーを感じたり。

その甲斐あってかはわからないけど、新たに脳が学習し、少しずつではあるが、前に比べたらできるようになったこともある。

脳の壊死した細胞を損傷してない部分が代替し、機能が回復する「脳の可塑性」ってやつらしい。それで言うと、わたしの右半身はまだ2歳だ。

視床出血特有の視床痛や痺れは、日が経つにつれ悪化しているのと、いわゆる感覚麻痺はなかなか改善しないのが気になるけど、うまく付き合っていくしかないのかな〜と。


1年前とあまり変わり映えしないし、つらつらと思うところを書き綴っただけの乱文ですが…長くなったので、この辺でさすがに終わりにします!(笑)

1年前のnoteはこちら↓


とにかく、この2年間、変わらず支えてくれた家族、子どもたち、パートナー、友だち、そして同病の皆さん、病気は違っても気持ちを分かち合ってくれた皆さん、本当にありがとうございます!


最後に、以前仕事で使ってたXを最近ようやく復活させ、新しくメディアも立ち上げました。よかったら見てね。


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