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#美術館女子 問題

美術館女子、って何?

美術手帖をオンラインで見ていた時に、ふいにこのワードが目に飛び込んできた。記事を読み、ネット上でこのワードが大炎上を引き起こしていることを知った。

事の発端は、美術館連絡協議会(以下、美連協)と読売新聞オンラインによる新企画。このワードや企画のコンセプトをめぐって、いろんな人がいろんな議論を繰り広げている。

冒頭の美術手帖の記事で指摘されているジェンダーバランスへの意識の欠如アートの役割の軽視、といった点に個人的には全く異論はなく、至極もっともな分析だと感じている。一方、自分が感じた違和感がこれらのポイントと完全に合致しているわけでもない気がする。というわけで、自分のもやもやの理由を自分なりに紐解いてみることにしたい。

もやもやその①: 消費されるアート問題

まず前提として、私自身、義務教育で最低限の美術教育しか受けていなかった大学生の頃にアートにのめり込み、十分な知識や教養がなくても存分にアートを楽しんできた身だ。だから、そもそもアートの楽しみ方に絶対解はなく、100人鑑賞者がいれば100通りの解釈や楽しみ方があると思っているし、それを許容してくれる懐の深さもまたアートの魅力だと思っている。

しかし、だ。本企画のウェブサイト上に並ぶ「映え」「アート作品と共演」「“作品”としての(自分)」といった言葉のオンパレード。冒頭には「アートの力を発信していく」とあるけれど、肝心の「ナビゲーター役のアイドルが作品に触れて何を感じたのか、アートの力とは何なのか」という点にフォーカスが当たっておらず、これではまるでただのSNS映えスポット紹介ガイドである。

前述の通り、アートの楽しみ方は人それぞれだ。しかし、作品と対峙する魅力や、作品鑑賞を通して得られる驚きや発見、感動を発信する、という本来あるべき趣旨をないがしろにし、作品を自撮りに最適な「映える」背景たらしめ、アーティストからしたらおそらく不本意だと思われるアートの消費を促進するようなPRの手法が、美連協という組織が関わっている企画で平然とまかり通っていることがただただ残念だ。また、アーティストの作品が自撮りの引き立てアイテムのような扱われ方をされていることも、アーティストやその作品への敬意が微塵も感じられず、憤りすら覚える。

そもそもの企画の趣旨を企画者の口から直接聞いたわけでもないし、私が正しく理解出来ていないかもしれない可能性を差し引いても、この「SNS映えのためのアート消費」が、一見それらしい情緒的な文章で平然と綴られている点にただひたすらもやもやする。

もやもやその②: ターゲットは誰なの?問題

次にもやもやしたのが、本企画のターゲット。それのヒントになる言葉がまさに企画のタイトルである「美術館女子」だ。ネット上では、「◯◯女子」という時代錯誤なワード設定やジェンダーの不公正性といった点が指摘されている。

文化庁が実施している「文化に関する世論調査」等参考になりそうな文献を一通り探すも、美術館等で美術鑑賞をする人々の性別×年代別分布を示すデータがなかなか見つからなかったため、私個人の肌感覚で大変恐縮だが、ひとつだけ言わせて頂く。

これまで幾度となく美術館やギャラリーに足を運び、アートマネジメントに関する学校に通ったり通信制芸大のオンサイト講義を受講し、いくつかのアートイベントでボランティアをやってきた立場からすると、アートの現場には圧倒的に女性が多いし、また鑑賞者についても然りだ。

マーケティング手法として、男性が圧倒的マジョリティを占める領域における稀有な女性のポジションにスポットライトを当て、「◯◯女子」とカテゴライズすることで市民権を与え、そのポジションを確立させるようなケースはこれまでも多かったが(例えば理系女子=リケジョとか、逆のケースだと育児男子=イクメン、とか)、これまであまりに多くの「◯◯女子」が誕生してきたため、もはや何の新鮮味も感じられない。さらに、ことアートの領域では、先述のようにむしろ女性がマジョリティを占めるケースが多いように思われる(但し、アートの現場におけるマネジメント職、という点では事情が異なってくる点は理解している)中、そもそもこの企画は「誰に対して」訴求したいんだろう?となり、もやもやするのだ。

もし仮に本企画の趣旨が「普段美術館とは縁遠い層に対して、美術館の敷居を下げ、新たな楽しみ方を提案する」ことにあるのだとすれば、女子なんかではなく「アートおじさん」にでもした方がよっぽどキャッチーなのに、と思う。毎週末ゴルフ場に足を運ぶように、おじさんたちが当たり前のように美術館に足を運び、飲み会の場で昨夜のプロ野球の結果を語るように、最近良かった展覧会の話をごく自然にする…いや、そんな風になったらすごく楽しい、すごく嬉しいじゃないか!まぁでも、おじさんというカテゴリーを持ち出すことでそれはそれでまたいろんな批判がありそうだから、このあたりで止めておくことにする。

もやもやその③: え、これってアウトじゃないの?大丈夫??問題

本企画のウェブサイトを見ていた時に、1枚の写真を見て唖然とした。

「美術館女子」ウェブサイト(https://www.yomiuri.co.jp/s/ims/bijyutukanjyoshi01/)より

言わずと知れた日本の現代アートの巨匠、草間彌生の作品と、その前にしゃがみ微笑むアイドル。ウェブサイトには「パワーに圧倒された」とあるけれど、それはそうだよね。だって背後にある作品のモチーフになってるのは、ほら、その、いわゆる男性を象徴するアレだもの。

草間彌生の作品を見るとポップ、というイメージを抱く方も多いと思うが、作品の中には彼女が抱いてきたトラウマや強迫観念を克服すべく反復して用いられてきたものも多く、このシリーズもその一つだ。

少しでもアーティストについて知識を有していたり、作品が作られた背景を理解していると、違う角度から作品を観ることが出来たりアーティストの想いにより近づくことが出来るため、個人的には作品鑑賞後でもいいから色々情報を集めたい、と思ってしまうタイプだが、先述の通り、アートの楽しみ方は自由。作品を鑑賞する時にこのような知識や背景を必ずしも知っている必要なんてない、と思っている。

ただ、アートについて何らかの目的を持ってその価値を浸透させるような企画を行う立場にいる者となれば話は別で、一定程度の知識と教養を当然に有しているべきであり、アートのことを十分に理解せずして表面的な企画を行うなんてあり得ないと思っている。

さて、企画者はこの作品のモチーフや背景を正しく理解していたのだろうか?もし理解不足のままに、今回ウェブサイトに掲載されているアーティストの中で最も知名度が高いから、という理由だけでこの作品を採用したのだとすれば、この1カットは皮肉にも彼らの無知さをさらけ出してしまったことになる。ただ、もし企画者がこの作品のモチーフや背景を理解していて、その上でアイドルにこの作品の前で微笑んでもらっているのだとしたら…?それはそれで何だか他意があるのでは、と詮索したくもなってしまうし、何より、たまたまこの作品のモチーフや背景を知らなかったアイドルが少し不憫にも思えてくる。

アート作品には身体性をテーマにしたものも多いし、ヌードやこういったモチーフは付き物であるから、これらをアイドルと並ばせることに風紀委員的に異議を唱えるものでは決してない。ただ、ウェブサイト全体を通して「映え」が意識されている中で、わざわざこのモチーフとアイドルを掛け合わせることについて、そもそもこの企画は「何を」訴求したいんだろう?となり、またももやもやするのだ。

おわりに

もやもやを書き出してみたことで、自分のもやもやはミソジニー的ものの見方に対する反発、というよりもアートが好きなひとりの人間という立場からの、本企画の不明瞭さ、不完全さへの静かなる反抗なのだ、と気付いた。

本企画はシリーズ化を予定しているものだそう。様々な意見がネット上を飛び交う中、「美術館女子」はどこへ向かうのか、注目したい。