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学校教育は迷走している?

教育の現場いると、学校の教員が指導要領と自分のやりたい授業に挟まれ、そのジレンマから暴走し、生徒を置き去りにしてしまう状況が散見される。

そもそも教育において指導する側のやりたいことを生徒に押し付けることがあってはならないのだが、実際に、それを自己満足でしてしまう教員は残念ながら存在している。しかも、どうやら少数ではないらしい。

例えるなら昭和の学園ドラマで「夕日に向かって走るぞー!」というのがあるが、そこで全力疾走している感じの教員がそこそこいる、という感じだろうか。

先生と生徒の実力差が小さければ全力疾走でもさほど困らないかもしれない。
しかしながら教員はその教科を教えることを生業とするわけで、所謂その教科のプロである。
仮に研究者をプロと見立てても、教育している側は少なくともセミプロレベルではあるはずだ。

初心者レベルの生徒セミプロレベルの教員の実力差は圧倒的である。
その実力差で全力疾走されたらもちろんついて行けるはずもない。
気合や根性では越えられない壁がそこにはある。

思いやりが足りないのだろうか?
道徳の授業をしているはずでは?
せめて後ろの状況確認してクレメンス
子どもを教育する前に自分を教育して、どうぞ。

そういうこともあってか、自己満足の暴走によって生徒が置いていかれ、校外のテストで散々な目に合う生徒たちから相談を受けることがしばしばある。

最初の頃は、そんなヤバみが深みな大人が教員をやっているなんて妄想であって欲しいと思っていたのもあり、相談してきた生徒が真面目に授業を聞いていないだけなのかと思っていた。

ところがどっこい、その後もあらゆる成績の子から相談を受け、さらには公開授業で参観された保護者様からもご意見を頂いたので、これはもう
「あっ…() ふーん。」と。

少し余談ではあるが、皆さんも勉強したのに成績が上がらないと嘆く人を目撃したことがあるのではなかろうか。

そう嘆く人、おそらく一定数はいるはずである。
服着て散歩しているお犬様と同じくらいの数はいると思う。しらんけど。

ああいった人が何故成績が上がらないのかといえば、大抵の場合は手段と目的が入れ替わっているか、本人の頭が弱いかのどちらかである。もちろんそれ以外もあるとは思うが。

後者は手の施しようがないので前者について話を進めるが、例えば提出するために宿題をしたり、宿題で答えを丸写しして終わり!なんてことをすると、当然なかなか成績を上げるのは難しい。

宿題は本来、その日に習ったことや身につけておきたい力を定着させるためのものだ。
個人的には、宿題は勉強の基礎体力作りをするためにあると思っている。

だから成績を上げる上で…←なんかこれ文字に起こしたら気持ち悪いな…
だから成績を上げる上で、宿題をこなすことは手段であって目的ではないし、それを間違えるとうまく力を発揮しにくくなる(と思う)。

逆に言えば、目的が達成出来るのであればその手段は宿題である必要がない。
…テストと宿題の話は長くなりそうなのでまた別の記事で書くとしよう。

話を戻すと、これと似たようなことが教員の中で起きているのではなかろうか。

本来、生徒の学力をつけることが目的であり、授業が手段であるべきなのだが、、
手段・目的「私たち、入れ替わってるぅ!?」

そういうことである。


私は教育評論家でも研究者でもない。
だから、何故彼らが生徒の学力に忖度出来ないのか、また何故彼らが手段と目的を間違えるのか、それを知る由もない。

ただ、教育する側の教育が不十分であるのだろうと

それが原因の1つとして学校教育の迷走が起こるのであろうと、そう思う。

私は他人の失敗を馬鹿にしたいとか嘲笑うとか、そういうことをしたいわけではない。

そりゃあ多少愚かだなと思うことはあるが、明日は我が身だと思い教訓にするためにこの記事を書いている。
更にあわよくばではあるが
様々な方に閲覧していただき、他者の失敗を共有して未来の教育に生かしていただき、より良い環境を形成する手助けになれればと思い上がっている。

そういうつもりで今後も記事を書いていくので、宜しければ、フォローやスキを宜しくお願い申し上げます。

それでは。

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