いったん夢を見ないかぎり夢から目覚めるのはあり得ないというからくり
目覚め、覚醒、悟りについて
真理の探究において、いわゆる、非二元(ノンデュアリティ)の探究において、私たちは「目覚め」「覚醒」「悟り」というものを追究していくわけです。
その霊性の道を「一元論のスピリチュアリティ」と呼んだり、あるいは、「ノンデュアリティのスピリチュアリティ」と呼んでいます。
そして、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)も、その類い中の一つの霊性の道だと言うことができます。
ですから、コースの中においても、もちろん、「目覚め」「覚醒」という言葉が出てきます。
ただし、興味深いのは、
「復活、再び目覚める、再覚醒、再生」
というような言葉でも表現されているということです。
「復活、再び目覚める、再覚醒、再生」
という言葉から、以下のことを意味していることが分かります。
つまり、
いったん夢を見ないかぎり、夢から目覚めるということはあり得ない、
いったん眠らないかぎり、覚醒するということはあり得ない、
ということです。
「目覚め」「覚醒」とは、つまりは、そういうものであるわけです。
「悟り」についても同じことが言えます。
いったん無智にならないかぎり、悟りの体験というものもあり得ないということです。
ようするに、非二元や真理を探究している私たちがもっとも理解しなければならないことは、「目覚め」「覚醒」「悟り」というもの自体が、幻想(夢)の中にいったん没入しないかぎりあり得ないものなのだということです。
それが何を意味するのか?
というと、「目覚め」「覚醒」「悟り」というものも夢の産物でしかないということです。
それらは、スピリチュアルな概念でしかないということです。
私たちは今、夢を見ている状態、眠っている状態、無智な状態になっているからこそ、目覚め、覚醒、悟りというものがあたかも探究される対象となっているのであり、つまるところ、実相(リアリティ)からすれば、目覚め、覚醒、悟りとは夢の中に居る者たちによる幻想でしかないということです。
「目覚め」「覚醒」「悟り」について述べるとき、以上のようなことは肝心なことだとはいえ、まったく見落とされていると言うことができましょう。
肝心なからくり(真実)を忘れて
上記で述べているように、「目覚め」「覚醒」「悟り」というものは、私たちが夢の中に居ると信じているからこそ、その概念が成立するわけです。
実際は、「目覚め」「覚醒」「悟り」というものすら無いということです。
その視点から見るならば、私たちはこの幻想(夢)の中で、「目覚め」「覚醒」「悟り」というものすらも使って、幻想(夢)を見続けようとしているのが分かります。
そういう肝心なからくり(真実)を忘れて、私たちは非二元(ノンデュアリティ)あるいはスピリチュアルの探究をしているということに気づきましょう。
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