良き人生であろうが悪しき人生であろうが、どんな人生もそれでいいのだ
この世界には希望も光もないことを理解する
私たちはなるべく平安でいたいし、なるべく動揺のない人生を送りたいと望んでいます。
そして私たちはそれを達成しようとして、この人生をあくせく生きているといえます。
さらには、スピリチュアルにその答えを求めて探究がはじまったりもするわけです。
中でも、妥協なきスピリチュアル探究者は、その探究の果てに、やがてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)と出会って、その学びをはじめることになるのだと思います。
でも残念ながら、コースが教えていることを真に理解するようになるならば、この世界には希望も光もないことを理解するようになります。
ようするに、この世界に絶望することになるということです。
というのも、この世界とはどういう世界なのか?が分かってくるからです。
もっといえば、「自分は人間であり、この世界は実在している」と信じているかぎり、本当の幸せ、平安などあり得ないことが理解されるということです。
つまりは、
この世界は実在している
=自分は人間(肉体)だと信じている
=個別性、特別性、つまり分離を信じている
=罪、罪悪感、恐れを実在させている
=間違った心(自我)を選んでいる
=平安を拒絶している
=聖霊を拒絶している
=神の愛を恐れている
=幸せを拒絶している
ということが、一つのパッケージとして理解されてくるということです。
コースの思考体系(形而上学)が根付いていくにつれて、この世界の夢はそもそもがそのように作られているということがますます理解されてきます。
この世界は苦痛、苦しみでしかないことを、そして、この世界には希望も光もないことを理解するようになるということです。
ちなみに、そういったことについて、仏教においても釈迦が「一切皆苦」という言葉で説かれているわけですが、コースが教えていることの理解が深まってくるにつれて、それが真理であると深く理解するようになるといえましょう。
ただし、その真理は、この世界にいる私たちにとってはあまりにも絶望的に思えます。
でも、二元性を超えていこうとするのであるならば、この世界の夢から目覚めていこうとするのであるならば、その絶望こそが祝福なのだということを覚えておくと良いでしょう。
なぜなら、絶望のその向こう側にこそ真の希望(光)があるからです。
それは、絶望があるところと同じ場所に真の幸せと真の平安があるのだということを意味します。
そのことを真に悟るまでは、私たちは学ばなければならないし、訓練しなければならないということです。
言い換えるならば、そうでないかぎり、私たちは光をけっして見つけることのない終わりなき探究の旅を続けることになるといえましょう。
俗にいう輪廻という時間の旅はそのようなものだと言うことができます。
話を戻すならば、私たちがまず知らなければならないのは、「自分は人間である、この世界は現実だ」と信じていること自体がすでに絶望であるということです。
そのことをしっかりと認識して、受け入れていくことがとても重要であり、それこそが真の希望のはじまりだといえます。
というのも、この世界がいかに絶望的であるか!そのことを認識しないかぎり、私たちはそれを「もうOKとはしない」とはならないからです。
むしろ、そのことを認識するまでは、私たちはこの世界の中でけっして幸せになることのないストーリーから逃れることなどできないということです。
実践的なところでいうならば、
自分が自我の思考体系と同一化して、今や自我になってしまっているのを認識していくこと、
そして、その狂気さ、愚かさを認識していくこと、
さらには、それによる代償を認識していくこと、
それが、コースを学んでいく上で、まず最初に、私たちに求められているということを覚えておきましょう。
動揺するとき、苦痛や苦しみを経験するとき
上記でも述べた通り、コースが教えていることを理解するようになると、この世界は絶望的である、ということが分かってくるわけですが、
ただし、コースが教えていることはそこで留まるものではないということも知っておく必要があります。
たしかに、この世界は苦痛と苦しみでしかない絶望の世界ではありますが、それを異なる別の目的で見ていくことができるということも教えてくれているのがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)だということです。
私たちが動揺するとき、あるいは、苦痛や苦しみを経験するとき、コース学習者であるならば、私たちはそれを赦しのレッスンとしていくということです。
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コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、非二元、真理、悟り、解脱を目指しているコース学習者のためのマガジン。
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