なぜそれほどまでにコース形而上学の学びとその理解が重要なのか?
今回は、
なぜそれほどまでにコース形而上学の学びとその理解が重要なのか?
ということについて、私の学びと実践において実感しているところから書いてみようと思います。
なぜ、コース形而上学の学びが重要なのか?
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の大まかな概要だけしか知らないにもかかわらず、コースを分かっているつもりになっている人たちがおられたりします。
そんな彼らがよく抱きがちな疑問と質問が以下のものだといえます。
なぜ、コースを学ばなければならないのか?
なぜ、そんなにコース形而上学(理論)の学びが大事なのでしょうか?
あるいは、
コースが教えているスピリチュアリティは非二元の教えなんだと分かっているのだから、それ以上のコース形而上学(理論)の学びなんて必要なのでしょうか?
といったものです。
コース学習について、そんなふうに思っている方々は結構おられるのではないでしょうか。
とくに、悟りの体験や一瞥体験をしたことのある方なんかは、以下のように思っていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。
理論よりも、体験のほうが重要なのではないでしょうか?
体験すれば、理論なんて必要ないのではないでしょうか?
というふうに、です。
そのことについては、たしかにコースの中でも、以下のように述べられています。
ただし、だからといって、コースの形而上学を学ばなくてもいい、というわけではないということです。
コースが述べていることの真意は、実践を通して体験的に理解していくことが私たちに求められているのだということです。
コースは真理(愛/普遍的な神学)について語られているのではなく、
”このコースは、その体験へと向かうものである。”(C-in.2:6)
ということです。
その体験へと向かうためには、やっぱり訓練が必要なわけですが、その訓練をしていくためにもコース形而上学(理論)の理解が必須であることは当然のことなのだということです。
ようするに、
「コース形而上学」とは何か?
というなら、コースが教え(教義)に基づいた実践をしていくための土台となるもの、と言うことができます。
要は、コース形而上学を理解していないならば、その実践もあり得ないということです。
あるいは、もしコース形而上学の理解が歪曲されるならば、その実践ももちろん歪曲されたものになってしまうということです。
そういう意味において、コースの学びを通してこの世界の夢から目覚めようと思うのであるならば、コース形而上学の学びと理解が重要なのことは、当然のことだといえましょう。
コースでは何が語られているのか?
では、コースではいったい何が語られているのでしょう?
ということでいうなら、コースは、私たちの無意識の深層心理の部分について、もっといえば、意識化されていない自我の力動について、心理学的に詳細に述べられていると言うことができましょう。
それがどういうことなのか?というと、私たちはコースを通して私たちの無意識レベルの自我の力動論について理解する必要があるのだということです。
実際に、コース形而上学を深く理解するようになってくると、いかに私たちは無自覚に自我の思考システムのプログラムに突き動かされているか!そしてそれがいかに狂った思考システムであるか!が認識できるようになっていきます。
さらにいえば、コースは、自我の起源についても教えてくれています。
神のひとり子であった私たちは今や、ワンネス(神との一体性)の状態から分離の世界であるこの宇宙物理的空間の世界へとさまよい込んでしまっているわけですが、
その原因は何なのか?
そして、
どのようなプロセスをたどって、こうなるに至ったのか?
コースでは、そのようなことについても教えてくれています。
どのような分離のプロセスをたどってきたのか?
それを知ることがなければ、私たちはどうやってもとの一体性(ワンネス)であるわが家へと帰っていくことができるというのでしょう。
そう、私たちはコースの学びと実践を通して、その下降してきた分離のプロセスを遡って、ワンネス(神との一体性)に帰っていくのだということです。
そのプロセスを逆に辿っていく以外に帰り道はないということです。
ただし、覚えておかなければならないのは、自分たちはわが家に帰ることを、夢から目覚めることを望んでいるからこそコースを学んでいるわけですが、だからといってそう簡単に「はい、分離は起きていません、幻想でした」というふうにはいかないということです。
ようするに、私たちは心を訓練していく必要があるのであり、そのためにもコース形而上学をしっかり理解する必要があるということです。
まるで魔法のように、一飛びに一気に神のものとに帰れるわけではないということです。
そこには訓練を要するのであり、そのためにしっかりとしたコース形而上学の理解と、それに基づいた訓練(実践)を要するということです。
「はい、聖霊(イエス)を選び直します。だから聖霊(イエス)よ、どうか天国のわが家に連れて帰ってください」というような実践をしていったところで神のもとに帰れるわけではないということです。
その学びのプロセスは、地道に一歩一歩でしか進んでいかないということを知っておきましょう。
その学びのプロセスは、コース形而上学の学びと理解、そして、その理解に基づいた実践をしていくことによって、コース形而上学のさらなる深遠な部分が理解されていく、、、といった具合に進んでいくといえます。
まさに、形而上学の「学び」とその理解に基づいた「実践」の両輪の繰り返しが、私たちに求められているということです。
コースの実践はどういうものなのか?
コースの実践で私たちは「赦し」をしていくわけですが、実際のところ、赦しとは何なのか?赦しは何をしていくのか?について理解していなければ、その赦しの実践もあり得ないと言うことができます。
要は、それゆえに私たちはコースを学ばなければならないし、コース形而上学を理解していかなければならないということです。
実際の実践的なことについていえば、そこには「赦しの3つのステップ」と呼ばれるものがあるということを覚えておきましょう。
たとえば動揺したとき、
この人のせいで、この状況のせいで、この環境のせいで、、、というふうに外側の何かや誰かのせいにするのではなく、
これは(心の)自分がただ外側に投影しているだけなのだ、、、と気づいていくこと、まずそれが一つ目のステップです。
そして、二つ目のステップとして、投影の源の内側を見る(心に戻る)ことをしていきます。
動揺しているのならば、それは「心(決断の主体)」の自分が自我の思考体系を信じているからであり、
つまり、「心(決断の主体)」の自分が平安(聖霊)の教師を選ぶ代わりに、分離(自我)の教師を選んでいることが誤りだったのだ、、、ということを自覚/認識していく作業(ワーク)をしていくということです。
「心(決断の主体)」の自分が自分にこれをやっている、つまり、自分で自我(分離)の教師を選んでいるということが自我/認識されるとき、自我と自我の思考体系が作り出したすべてが虚偽であることがはっきりと認識することができます。
そう、それを、「赦し」「奇跡」と呼んでいるということです。
その「赦し」の視点に戻る訓練が、私たちが実践していくことなのだということです。
そしてそれは、一つ一つのステップ(階段)を辿っていくことなのだということです。
その一つ一つのステップを踏み外さぬように辿っていくためにも、私たちは心の分離(4つの分裂)のプロセスをしっかり明確に理解しておく必要があるわけです。
それはなぜなら、来た道を通って帰る以外に道はない、つまり、その一つ一つのステップを辿っていく以外に真の原因に戻る道はないからです。
それは、イエス/聖霊がまるで魔法使いのように連れ帰ってくれるようなものではけっしてないということです。
私たちは、自分で下降してきた分離のプロセスの階段を思い出し、そして、その階段を自分で上って(戻って/辿って)いく訓練をしていかなければならないということです。
コースのイエスは、「私がいるところまで戻ってきなさい。私がいるところに来なさい。そして、私と共に見なさい。」と云っています。
イエス/聖霊は、どこから見ているのか?
私たちは、その視座(視点)を思い出し、そこへと戻っていく必要があるということです。
でも、私たちは、その視座(視点)へ戻るための階段をすでに忘れてしまった状態になっています。
だからこそ、その階段を思い出していくためのコース形而上学が必須なのだということです。
そして、私たちが自覚しなければならないのは、私たちは自我と同一化していて、今や自我になってしまっているということです。
その自我の巧妙な精神力動ついて理解していくこと、そして実践においてそれを認識していくこと、それが自我から脱却していくための方法なのだということを覚えておきましょう。
自分はどんなふうな考えを抱いているのか?
自分はどのように知覚しているのか?
それを認識していく、、、気づいていく、、、
そういうことを自覚/認識していくことが重要なのだということです。
コースの心理学的な側面を理解する
コースの形而上学を理解するということは、いわゆるコースの心理学的な側面を理解するというふうに言うことができます。
理解しておくと良いのは、このコースは一元論の霊性の道でありながらも、このコースはまさに「心理学」なのだということです。
(それこそが、コースの特徴的なところだといえます)
ですから、コースの心理学的な側面を理解せずに、コースの学びと理解はあり得ないと言うことができます。
むしろ、コースの心理学的な側面の理解なしで、つまり、コースの形而上学の理解なしで、どうやってコースの実践ができるというのでしょう。
でも、しっかりとコース形而上学を学び、その理解が深まっていくならば、コースの赦しの実践ができるようになっていくだけでなく、コース学習者である私たちがゴールとしている実相世界への階梯(橋)が見えてくるようになっていきます。
自分は何者で?
何のために?
どういう考えのもとに?
どのようなことをしていけばいいのか?
それをしていくことによってどうなるのか?
そういうことについて学んでいくのがコース形而上学の学びであり、私たちはそれを根付かせていかなければないということです。
ようするに、
コースを実践していくためには、それを実践していくための土台となるコース形而上学の(理解)が絶対に欠かせませんし、最終的には、コースの形而上学を(思考体系)を完全に根付かせていくことが、このコースの学びと実践の目標としているということです。
それなしに、実相世界への階梯も見えてくることもなければ、それを上っていくこともあり得ないということです。
以上から申しましても、コース形而上学の学びとそれを理解していくことがいかに重要かということがお分かりでしょう。
コースを通して本気でワンネスに目覚めていこうと思っているのであるならば、コースの形而上学をマスターすることは絶対に不可欠なのだということをしっかりと肝に銘じておきましょう。
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