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大いなる自己(Self)を自覚したところから、人間を生きる
「赦し」とは「癒し」である
そもそもが、ここには自分ひとり(神のひとり子)しかいないわけです。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、そのようなことが理解されてくるだけでなく、そのような在り方になっていくと言うことができます。
コース学習者にかぎらず、目覚めていく者はそのような知覚になっていくと言うことができましょう。
いわゆる、大いなる自己(Self)を自覚したところから、人間を生きるようになるということです。
それは、外側に見えているものすべてが自分を映し出した投影でしかないという認識とともに、ここには自分ひとり(神のひとり子)しかいないということが自覚されているということです。
つまりは、
知覚しているものすべて(客体)=自分(主体)
というような知覚になっていくということです。
要は、世界(客体)と自分(主体)は別々ではなく、「一なるものとしてつながっているワンネスである」(T-25.Ⅰ.7:1)と自覚したところから、目の前の世界と関わっていくようになっていくということです。
それをコースでは「自と他の利害の一致」とか「共通の利害」というふうな言い方をします。
なので、自分の目の前にいる人たちを自分とは別の者とは見てはいません。
むしろ、自己について教えてくれるありがたい教師に見えています。
苦しんでいる者も、愛を求めて叫んでいる者も、能天気にこの世界の夢を楽しんでいる者も、自分だと見えています。
一方、そのすべてが悟った存在の自分であるということも分かります。
まさに自我と真我(自我と聖霊)の両方の自分自身が自覚されています。
つまりは、そもそもが一なるものであったにもかかわらず、自分(の心)は分裂していることを自覚するようになるわけです。
それが自覚されるならば、癒しを望まないわけがありません。
どのようにして、癒しはなされるのか?
というなら、それがコースで「赦し」と呼んでいるものです。
コース学習者の私たちはその「赦し」についてコースを学んでいるのだといえましょう。