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私たちはひとつ=私はいない

玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくように

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、何をしているのか?

というなら、それは、自分とは何者か?自分とは誰なのか?という真我の探究をしていると言うことができるでしょう。

それは、まるで自己概念の仮面が剥がれ落ちていくようなプロセスだといえます。

まさに、そのプロセスは玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようなものに喩えることができます。

玉ねぎの皮を剥ぎ取っていったとき、最後には玉ねぎの芯にたどり着くのだと思いきや、芯すらなかったとなるわけです。

ようするに、自己概念の仮面が剥がされていくにしたがって、「真の自己」「真我」にたどり着けると思いきや、むしろ、「自分」などいない、ということを認識するようになるということです。

自分だと思っている「自分」などいない、ということが理解されていくということです。

コースの学びのプロセスはそのようなものだと知っておくと良いでしょう。

そして、私たちが学ばなければならない重要なことは、

「自分はいない」というとき、それは、「すべては一つ」「全一である」ということと同じ意味を言い表しているということです。

真理から見るならば、分離、個別性、特別性といったものなどないわけです。

個人性も、個という概念も無いわけです。

すべてが「全一性(ワンネス)」としてあるだけです。

当然、個の「自分」などいるわけがありません。

つまり、

コースの学びが深まっていくにつれて、私たちはどうなっていくのか?

というと、

「個別の自分など存在せず、全一なる自分がいるだけ」

ということが理解されてくるということです。

そして、コースの日々の実践でも、そのように見ていく訓練をしていきます。

「すべては全一に同じ」として見ていくということです。

自分と他者を別々の存在として見るのではなく、いわゆる、自と他の共通の利害を見ていくということです。

それが、コースでいう「神の教師」の生き方であるわけです。

それは、「私」から「私たち」へと自己概念(アイデンティティー)がシフトしていくということです。

言い換えるなら、それは個の「自分」の無意味性、無価値性、非実在性を受け入れていく訓練だといえます。

その訓練によって、次第に私たちがこれまですっかり忘れていた「一なる自己」である真のアイデンティティーが思い出されていくようになります。

そう、私たちは、一なる自己である真のアイデンティティーを思い出していくことが、私たちがコースの実践の目標としているものだということを覚えておきましょう。


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