すべては起きることが起きているだけなら、私たちには何もできないのか?
私たちには選択の力があるのだということ
悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティでは、「ここ(この世界)で経験していることは起きることが起きているだけ」という言い方をします。
そのことについては、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えでも、「私たちはすでに終わった過去を見ているだけ」とか「すでにシナリオは書かれている」といった表現がされています。
そこで、誰もが疑問を抱くのが、次の質問だといえます。
起きることがただ起きているだけならば、自分には何もできないのだろうか?やることは何もないのだろうか?
という疑問です。
その疑問について、コースの教えから答えるとするなら、私たちにはできることがありますし、していくことがあります、ということです。
私たちがしていくこととは、
自我の目的と聖霊の目的、そのどちらの目的で見るか?
というその選択なのだということです。
それだけが私たちにできることであり、していかなければならないことだと言うことができます。
要は、自我の目的から聖霊の目的に選択し直していくことが私たちに求められているということです。
どちらの目的で見るか?
私たちには、その「選択の力」があるということです。
その「選択の力」を思い出していくことが、コース学習者の私たちに求められているものだということも覚えておきましょう。
なにせ、それだけが私たちにとってできることであり、すべきことなのだということです。
それによって、私たちは自分が何者なのか?を次第に思い出していくことになります。
肉眼で知覚するかぎりは、この世界の中で私たちはいろいろなことができているかのように見えますし、いろいろなことをしているかのように見えていますが、実相(真理)から見るならば、もともと私たちは何もしていなくて、ただこの世界の夢を見ているだけなのです。
私たちはこの今もただ夢を見ているだけなのだということを思い出していくことが、コースの実践でしていくことです。
言い換えるなら、この世界の中において、私たちにできることはそれ以外に何もないということです。
この世界の夢をどちらの目的で見るか?
つまり、どちらの教師と共に見るか?ということです。
これまでのようにこの世界をリアルとして見るのか?
それとも、
これは夢(虚偽)であると分かったところから見るのか?
そう、後者の夢であると分かったところから見るのが、「赦し」です。
私たちがコースの実践を通して学ばなければならないこととは、その「赦し」こそがこの世界で私たちがしていく唯一の機能/役割なのだということだと言うことができるでしょう。
コースの赦しの実践を通して、自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直していくこと、さらには、その「赦し」を完全に修得していくことが私たちに求められているということです。
聖霊を教師とするとは、聖霊の視点から見る、ということです。
ただし、聖霊の視点から見ると言いましても、そのためにはコースの思考体系(コース形而上学)が理解されていないかぎりできないということも覚えておきましょう。
というのも、そもそも私たちはそのために正しいものの見方(聖霊の視点)について、つまり、コース形而上学ついて学んでいるわけです。
聖霊はどのようにこの世界や私たちを見ているのか?
そして、聖霊はどの視点(視座)から見ているのか?
そういったことについてその形而上学を理解することなしに、正しい心(聖霊)の視点を思い出すことはないわけです。
だからこそ、コース形而上学を理解していくことが必須となるわけです。
コース形而上学の正しい理解がなければ、「赦し」もあり得ないということです。
つまり、コース形而上学はコースを実践していくための土台となるものだということを肝に銘じて、コースを学んでいきましょう。
私たちの機能(役割)とは
コースの実践で私たちがしていくことは、ただ幻想を否定していくような実践ではなく、幻想(自我)を見ることをしていくということです。
逆に言えば、幻想(自我)を見ずして、赦しはあり得ないということです。
”一掃できるランプ”とは、「真理の光」「正しい心」「正気の思考体系」のことを云っています。
つまり、それを、コースでは、「聖霊/イエス」と呼んでいるわけです。
ここでわきまえておかなければならないのは、「聖霊/イエス」とは、あくまでも象徴(シンボル)なのだということです。
それは、まるで魔法使いか、天使か、高次なる存在といったような何者かが、自我、闇、幻想を取り消してくれるのではないということです。
正しい心、つまり、正気の思考体系のほうから幻想(自分で作り出したもの)を直視していくことによって、それが幻想であることを認識していくことが赦しの実践において私たちに求められているということです。
「自分が自分に行っているだけ」と自覚したところから見る(直視する)とき、知覚の訂正(取り消し)は起きます。
そして、その視座(視点)から見ているときが、「赦し」の瞬間であり、「聖なる瞬間」と呼ばれるものです。
コース形而上学に基づいて実践していくなら、つまりは、赦しの実践を通して聖霊の視点から見ることをしていくなら、
ここ(この世界)で経験していることのすべてが虚偽だと分かるようになっていくだけでなく、
自分はこの世界(時空)には居ないのだということも自覚/認識することができるようになっていきます。
私たちが覚えておかなければならないのは、このコース実践は、自分とは何か?を自覚していくプロセスなのだということです。
ようするに、私たちにできるのはその実践であり、その機能を果たしていくことだけが私たちに求められているのだということです。