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私たちがイエスのようになることをコースのイエスは望んでいる

玩具を手放せるようになるために

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のイエスが私たちに望んでいるのは、私たちがイエスのようになることだといえます。

ただし、それは聖書の中のイエスのようになるということではありません。

イエスとは、私たちの正しい心、つまり、正気の思考体系の象徴(シンボル)だということを忘れてはなりません。

イエスのようになるとは、つまりは、正しい心と同一化するということであり、それは正気の思考体系を完全に修得することを意味します。

そこで私たちがわきまえておかなければならないのは、コースのイエスは私たちが成長していくための導き手、ガイドではありますが、やはり、自分で自ら学んでいこうとしないかぎり、イエスのようになることはあり得ないということです。

そうなっていくためには、意欲と努力を要するということです。

もっといえば、イエスが見ているように知覚するには、そのような知覚で見れるようになるための訓練を要するということです。

では、

コースのイエスは、この世界をどのように見ているのでしょう?

コースのイエスは、この世界(夢)について「玩具」という言葉で比喩的に表現しています。

そして、その「玩具」を手放せずにいつまでも遊びをやめられない私たちのことを、「幼き子子供」というふうに表現しています。

つまり、私たちがこの世界でやっていることは、まさに幼い子供が玩具で遊んでいる(人形遊びしている)ようなものだと、コースのイエスは私たちに教えてくれているわけです。

しかも、この世界は自分を傷つけるための玩具でしかない、とも教えてくれています。

ただし、幼い子供である私たちは、まさかその玩具が凶器であり、それが自分自身を傷つけるものであるとはまったく理解していないのです。

それどころか、幼い子の私たちは、じつは、自分は傷つきたくて、苦痛を感じたくて、自分から願望してその遊びをやっているということも忘れてしまっています。

それが、今この世界の私たちの状態です。

私たちは、その遊びに夢中になっています。

それが自分を傷つける玩具だとも知らずに、さらには、それが自分自身を十字架に架ける遊びだということも知らずに、です。

そのことを私たちはまったく分かっていないのです。

だからこそ、コースのイエスは、そのことを自覚/認識しなさい!と、さらには、私(イエス/聖霊)と共に見なさい!と私たちに呼びかけているわけです。

そのことを認識することなしに、誰がその玩具で遊ぶのをやめようとするでしょう。

そのことを認識するならば、誰もその遊びを良しとはしないでしょう。

ただ、実践的なところから言いますと、たとえそのことを認識したとしても、その玩具を手放そうとはしない自分を自覚することになります。

その玩具での妄想の遊びをやめられないのです。

むしろ、その遊びを手放すことを恐れています。

それというのも、妄想の中で遊んでいるところから「現実」に引き戻されて、本当の自分は神の子だということを思い出すならば、自分は「いけない遊びをしたがゆえに、父に叱られる」と信じているのです。

だから、偶像でもいいから「玩具」を必要としているわけです。

つまり、神の愛よりも、玩具のほうが救済だと信じているのです。


あなたが見ているような夢の中には救済はあり得ない。なぜなら、あなたが達成したと信じているものや、自分を罪深き者にし、内なる光を消すために行ったと信じているものから、あなたを救い出すためには、偶像たちがその夢の一部でなければならないからである。幼き子よ、光はそこにある。あなたは夢を見ているにすぎない。偶像たちは玩具であり、あなたはそれらと一緒に遊んでいるという夢を見ているのである。子供以外に誰が玩具を必要とするだろう。子供たちは世界を支配しているつもりになって、彼らの玩具に、動き回る力や、話をしたり、考えたり感じたり、彼らを代弁したりする力を与える。だが、彼らの玩具がしているかに見えることはすべて、それらで遊んでいる者たちの心の中にある。しかし彼らは、玩具が実在するかのような夢を作り上げたのは自分であることを懸命に忘れようとしており、玩具が抱く願望は自分自身の願望であることを認識することもない。 (T-29.Ⅸ.4)

奇跡講座/中央アート出版社


コースのイエスは、その狂気さをしっかりと認識しなさい!と私たちに告げています。

そして、「私(イエス/聖霊)のところに来て、私と共に見なさい!」と語りかけています。

実際に、コースが教えていることが理解できるようになっていくにつれて、私たちはその狂気さを認識していようになります。

そして、そうなっていけばいくほど、狂気が作り出した妄想の遊びでしかないこの世界(玩具)に対して、もうこれを良しとはしない、となっていきます。

そうなるとき、ようやく本格的なこのコースの学びと実践がはじまると言ってよいでしょう。

具体的な実践についていえば、自分たちが自我であることと、その自我の狂気さを認識していくこと、それだけでなく、その自我を咎めずに見ていくことをしていきます。

そのために私たちが理解しておかなければならないのは、以下の通りです。

私たちは自分自身を傷つける目的でこの世界の玩具で遊んでいるということ。

そして、私たちはこの世界の玩具をけっして手放すつもりはないのだということ。

そして、それが自我というものであるということ。

そして、その自我がしていることを咎めずに見るということです。

自我とはそういうものであるということを理解したところから見ていくならば、私たちはその狂気さ、愚かさを見て、笑って(微笑んで)見ることができるようになっていきます。

そう、イエス/聖霊は、そのように見ているということです。

イエス/聖霊が見ているように見れるようになるまで、つまり、私たちの知覚がそうなっていくまで、それが当たり前となるまで、私たちはそれを学んで、訓練していくということです。

それがコース学習者の私たちが目指しているものだということを覚えておきましょう。

狂気の思考体系とそれが作り出した世界(玩具)を、イエス/聖霊と共に直視していくということです。

玩具を手放せるようになるために。

幼い子の私たちが訓練によって成長していって、イエスのようになっていくために、そのために私たちはコースを学び、そして、訓練しているのだということをしっかりとわきまえておきましょう。


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