他者を自分と同じ「兄弟」として見る
コースでいうところの「兄弟」について
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で「兄弟」という言葉が使われていますが、それは「他者」とは別の意味として表現されているということを知っておく必要があります。
では、兄弟とは何なのでしょう?
もちろん、学びはじめの段階においては、「兄弟(姉妹)」と呼ぶとき、他者のことだというふうに捉えても仕方のないことでしょう。
ただ、コースの学びが深まっていくにつれて、つまり、「自分は肉体である」のではなく「自分は心である」ということが自覚/認識されていくにつれて、「兄弟」のその意味が分かるようになっていくといえます。
ようするに、コースで呼んでいるところの「心」が自覚/認識できるようになってくると、そこから見えている人たちを「他者」とは知覚しなくなっていくということです。
そして、「兄弟」とはまさに自分自身であることを体験的に理解するようになるということです。
それというのも、「心」の視点(視座)から見たとき、兄弟とは同じ一つの「心」が断片化した自分の一部であり、兄弟は自分とは別の存在なのではなく、その本質は自分と同じである、というふうに知覚されるようになるからです。
つまり、自と他の共通の利害を生きるようになるということです。
それとは対照的に、
「自分は肉体である」「個人の人間である」というところから兄弟を見るならば、(私たちは当たり前にそこから見ているわけですが、)その見ている対象は兄弟ではなく他人(他者)として見ることになります。
兄弟とみるのか?他者とみるのか?
それは、自分を何者だと思っているか?に依拠しているということです。
例えば、自分を肉体であり、個の人間だと信じているなら、自分以外の肉体(身体)を他人(自分とは別の存在)と見てしまうことになります。
一方、自分は「心」であるところからみるなら、そこからみているすべてが自分の一部というふうに知覚されます。
そこでは、兄弟も自分も同じ夢のキャラクターであり、すべてが自分です。
そこには、もはや他者はいません。
私たちが覚えておかなければならないのは、「心」を自覚した状態の視座から見るからこそ、そう見えるのであって、そうでないかぎり、すべてを同じとして見ることはあり得ないということです。
さらにいえば、そのようにすべてを同じ(同一/全一)として見ていないならば、「赦し」もあり得ないということです。
「赦し」は、全一でなければならないということを知っておきましょう。
要は、自分は「心」であるという自己認識(アイデンティティー)のシフトなしには、コースの学びも実践もあり得ないということです。
そして、そのためには、コースで呼ばれる「心」についての形而上学的(概念的)な理解が絶対不可欠であるということです。
コース形而上学の理解なしには、自分は「心」であるというアイデンティティー(自己認識)のシフトすらあり得ないわけですから、そういう意味でも、いかにコース形而上学の学びと理解が重要かが分かるはずです。
まずは、形而上学的に「心」の概念を理解していくこと、そして次に、実践において「心」である自分を思い出していくこと、それだけでなく、そのアイデンティティーへとシフトしていくことが私たちに求められているということです。
そのためには投影に気づいていく訓練がなされなければならないということです。
そう、外側に見えているすべてを「心」の自分を投影したものとして見ていくならば、すべてが自分であることが体験的に理解されるようになります。
兄弟を自分の一側面として見ていくなら、もうそこに他者はいません。
他者がいないのなら、ここには「自分」しかいないわけです。
その「自分」こそが、「心」の自分(真のアイデンティティー)です。
兄弟をそのように見ていく訓練は、コースの実践をしていくうえで必要不可欠であることは言うまでもありません。
ようするに、周りに見える人たちを自分と同じ「兄弟」として見ていくことによって、「肉体である個人の自分」から「全体である心の自分」へと自己認識(アイデンティティー)をシフトしていくことになるということです。
コースの学びの階梯を上っていくには、そのアイデンティティーのシフトが必須であるということを覚えておきましょう。
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