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コースの理論を第1レベルと第2レベルの二つのレベルに分けて捉えること

形而上学上の理解の混乱を起こさないために

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は一元論、いわゆるノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティ(霊性の道)であることは周知のとおりです。

私自身もさまざまな一元論、非二元のスピリチュアリティを探究してきたわけですが、私がコースを学んでとくに素晴らしいと感じたところは、その教えを「第1レベル」と「第2レベル」の二つのレベルに分けて捉えていくというところです。

コースが教えている内容を「第1レベル」と「第2レベル」の二つのレベルに分けて捉えることを提唱したのがまさにワプニック博士なわけですが、彼の解説こそが本当に素晴らしいといえるでしょう。

というのも、もしワプニック博士の解説がなかったならば、私たちはいともたやすく「第1レベル」と「第2レベル」の教えを混同してしまうからです。

そうしてしまうならば、非二元や悟りのスピリチュアリティ特有の混乱を起こすことになりかねないといえます。

あーでもない、こーでもない、というような禅問答のような埒のあかない探究になってしまいかねないということです。

でも、「第1レベル」と「第2レベル」というふうにその教えをレベル分けすることによって、そこにはしっかりとした学びと実践の道が示されていることが分かるようになったと言うことができましょう。

では、コースの教えはどのように「第1レベル」と「第2レベル」に分けられているのか?

というと、

第1レベルでは、

「この世界は幻影(幻想)である」「世界は無い」「分離はない」「神と一体である」「私たちは一つである」

といったことについて、つまり、真理について述べられているのが第1レベルで教えられている内容だと言うことができます。

ただし、「すべては幻想である」とはいっても、私たちはそのようには知覚していないわけです。

ですから、第2レベルでは、

「神からの分離は起こった」と信じてしまっている私たちが分離の世界(幻想)の中で、

どのような形而上学のもとに、どのような実践をしていけばいいのか?

ということについて述べられているのが、第2レベルで教えられている内容なのだと言うことができます。

この二つのレベルを混同してしまうと、形而上学上の理解の混乱が起きてしまって、せっかくの学びと実践が何の意味もなさなくなってしまうといえます。

もし形而上学的なところで混乱してしまうならば、その実践も本来コースが目的とするものとはまったく違ったものになってしまいかねません。

たとえば、コースはこの世界から自由になっていくための霊性の道であるにもかかわらず、むしろ、この世界に留まらせる方向でコースが学ばれてしまったりするということです。

その典型的な例が、コースは幻想を直視していくことを教えてくれているにもかかわらず、そうではなく、ただ幻想を否定するような学び方と実践をしてしまっていたりするわけです。

中でも、もっとも実践的なところの混乱でいえば、「真理を幻想に持ち込む」ということをして、もはやこの世界から自由になっていくための学びと実践ではなくなったりするということです。

また、他にも、形而上学的な混乱の例でいえば、「何もする必要はない、大丈夫、だいじょうぶ」というようなものになったり、あるいは、「聖霊に祈りましょう、聖霊にゆだねていれば大丈夫」といった学び方と実践になってしまいかねないわけです。

とくに、巷における悟りや、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティでは、まさにその混同を起こしていると言わざるを得ません。

非二元について知的な理解としてはもうわかっている、、、
でも実際のところ不安や恐れがなくなるわけでもなく、
どうしたらいいのか?なにをどう実践していけばいいのか?
ということに関しては、、、、結局のところよくわからない、、、

といったふうなケースが、巷の悟り系やノンデュアリティ系のスピリチュアリティで起きていて、そのような混乱した探究者たちのことを、「ノンデュアリティ難民」と呼んだりしています。

しかも、そのような「ノンデュアリティ難民」は、悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティだけに限ったことではありません。

それはコース学習者の中にも多く見受けることができます。

それというのも、そのようなコース学習者たちは、そのほとんどが第1レベルと第2レベルを混同してコースを学んでいる、そして実践しているといえるからです。

そうなってしまう大きな理由として挙げられるのが、コース形而上学の曖昧な学びと理解が、そういうことを招いていると言うことができます。

コースをしっかりちゃんと理解していくならば、コースは「第2レベル」に主眼を置いて述べられていることが分かるものです。

「この世界は幻想である」という第1レベルの教えをいくら知的に分かっていたとしても、実際のところ、「この世界は実在しない」というふうには知覚していないわけで、だからこそ第2レベルの教えについてしっかり学んで理解していく必要があるということです。

コースは、この世界を非実在(幻想)としてむやみに否定していくような霊性の道ではないわけです。

むしろ、コースは、この世界(幻想)をどのように見ていくのか?について教えてくれている霊性の道なのだということです。

つまり、コースを学ぶということは、「幻想世界の中にいながらも、その幻想の中でどのような考え方でどのような実践をしていけばいいのか?」ということについて学んでいるのだということをしっかりわきまえておきましょう。


存在するように見えるが実は存在しないこの世界の中で生きるための、一つの生き方がある。(W-pI.155.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースは、「この世界は幻想である」というふうにただ否定していく道でもなければ、「私たちは愛です、神です、一つです」というふうに言い聞かせていくようなスピリチュアリティではないということです。

この世界を知覚しているかぎり、私たちは学んでいくべきこと、実践していくべきこと、そして修得していくべきものがあるわけで、そのための土台として、テキスト、ワークブック、教師のマニュアルをしっかりと理解していくことが必須なのだということです。

その理解なしに、コースの実践はあり得ないということを覚えておきましょう。

仮にもしテキスト、ワークブック、教師のマニュアルをしっかりと理解していくことなしにその実践をしているとするなら、それはコースの実践をしていると言えるのでしょうか。

話を戻すならば、第1レベルと第2レベルでの教えを混同しないことは、コースを学んでいく上ではとても重要だということです。

コースを学んでいくのであれば、第1レベルと第2レベルのちがいをしっかりと明確に理解していく必要がありますし、そのためにはコース形而上学をしっかり理解してしていく必要があるということです。

そう、コースは主に第2レベルの部分に重点を置いて述べられているということです。

ですから、私たちコース学習者は、第2レベルにおけるその実践方法について学んでいるのだということを知っておくとよいでしょう。



参考記事:JQA#18: 「レベル1」と「レベル2」というレベル分けについて


参考記事:JACIMサイト本館『奇跡講座』の理論


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