あなたはイエスを十字架にかけたまま、イエスを崇め続けたいだろうか?
イエスを崇拝することについて
コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びが浅い段階においては、イエスや聖霊を、まるで魔法使いのようにあるいは神秘的な存在として扱ったり、ときには、崇拝すべき特別な存在として扱ったりしてしまうといえます。
私たちが学ばなければならないのは、イエスや聖霊をそのように扱うとき、それがどういうことを意味するのか?というと、自我の分離の想念を強めることをしているということです。
つまり、それはイエスや聖霊に対して、
「私はあなたとはちがいます、私とあなたは別の存在です」
という宣言をしているということです。
私たちがそうするとき、イエス/聖霊との関係をいわゆる特別な(愛の)関係にしてしまうことになります。
コースのイエスは、私たちがそうすることをけっして望んではいません。
コースの学習者であるならば、そのことを十分に理解しておくべきです。
では、イエス/聖霊をどのように捉えていくのか?
ということで言うなら、
イエス/聖霊とは、あくまで私たちの本性(真の自己)の象徴(シンボル)なのだということです。
つまり、私たちの心の中の神の記憶を覚えている「正しい心」の部分の象徴として、それを「イエス」「聖霊」と呼んでいるだけということを理解しておくということです。
イエス/聖霊は、自分たちとはちがう存在ではないし、自分たちと別々に離れているのではないということです。
そうではなく、イエス/聖霊は、むしろ、私たちの真の自己の象徴わなけです。
ようするに、私たちの誰もの内側にある「正しい心」の部分の象徴を、コースでは「聖霊」と呼んでいるのだということ、そして、その象徴をさらに具現化、顕現化したシンボルとして「イエス」と呼んでいるということです。
そういうことが理解されていくならば、イエス/聖霊を崇拝することがいかにその学びを大きく歪曲してしまうことになるかがよく分かるはずです。
仮にもし、イエスや聖霊に対して崇拝するような想いを抱いてコースを学び、そして実践しているとするなら、それは、まさにイエスを十字架にかけていることになるということです。
あるいは、イエスや聖霊に対して祈りを捧げる、献身する、というようなことをしているなら、二元性の神を崇めるのとまったく変わらないことをしているということです。
いつまでイエスを十字架に架けて、十字架のイエスを崇めるようなことをし続けるつもりなのでしょうか?
というのも、私たちはつい、そのようなコースの学び方をしてしまうからです。
もっと広げて言えば、天使、高次の存在、守護霊、霊能者、ヒーラー、ティーチャー、グル、等々、、、数え上げればきりがないほど、私たちは自分の外側にそういった存在を作り出したがります。
もし、自分以外の何かを、誰かを崇めるならば、それがつまりは、イエスを十字架にかけているのだということを私たちは理解する必要があります。
コース学習者であるならば、そのことを重々理解しておかなければならないといえます。
コースの教えが正しく学ばれて正しく理解されていくならば、そういうことが分かってくるわけですが、多くのコース学習者が間違った解釈で学び、そして実践してしまっていることは否定できないといえます。
それでもコースが教えていることを理解するようになるならば、自分たちがいかに分離を強化し続けているか!ということに気づけるようになります。
そして、そういうことに気づいていくことがその実践となっていきます。
イエスを信仰し、崇拝し、崇めるような学び方や実践をしているとするならば、それはまさに偶像崇拝の何ものでもありません。
イエスや聖霊はそういうことを私たちに望んでいるのではありません。
むしろ、イエスを信仰しようとする私たちの誤りを伝えるために、コースは口述されたと言っても過言ではありません。
ワプニック博士は云います。
「コースは、聖書の教えに対しての訂正として口述されたものです」と。
「ですから、コースのイエスを、聖書のイエスと混同しないでください!」と。
コース学習者は、コースの教えを、聖書の教えと混同しないようにしなければなりません。
むしろ、それらは相反する教えであるということを理解しておきましょう。
(それは、まともに学んでいくならばすぐに分かることです。)
コースのイエスは、イエス/聖霊と私たちは対等であると教えてくれています。
イエスと私たちは別々の存在なのではありませんし、自分たちは別々に離れてなどいないのです。
イエスを自分とは別の存在として、イエスを自分とは離れた存在であるかのように私たちは解釈していますが、そもそもが私たちは一なるものであるわけです。
別々であるかのように知覚しているその知覚(分離の思考体系)を信じていることが問題なのです。
イエス、聖霊は、そのことをコースを通して私たちに教えてくれています。
私たちは同じです。対等です。一つです。
コースは、そのことを私たちが思い出すために導いてくれています。
『コース』のイエスと、『聖書』のイエス
さらに、ワプニック博士はこう云います。
「コースのイエスと、聖書のイエスを一緒にしないでください。聖書のイエスのように、イエスが魔法か何かで私たちを救ってくれるのではありません」と。
コース学習者の私たちはコースの学びと実践を通して何をしていくのか?
というなら、
イエス/聖霊を教師として、イエス/聖霊が見ているようにこの世界を見る訓練をしていくということです。
イエス/聖霊が見ているその知覚(真の知覚)を、私たちは修得しなければならないということです。
そして最終的にはイエス/聖霊と同一化していくことが、コース学習者である私たちの目指すゴールなのだといえます。
イエスを崇拝することなかれ。
イエスを信仰の対象とすべきではありません。
そうではなく、イエスを自分の本性のシンボル(象徴)として見ていくということです。
私たちはイエスとちがってはいないのです。
分離は起きていないのであるなら、つまり、私たちは「一なるものとしてつながっているワンネス」であるなら、そのような見方をしていくべきです。
それが、この世界で私たちがしていくべき訓練です。
その知覚が完全なものになるまで、つまり贖罪を受け入れる瞬間まで、私たちはコースの実践を通して学んでいくのだということを覚えておきましょう。
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