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ブッダの言葉をコースの言葉に置き換えるなら?

叡智によって理解するとき、苦しみはなくなる

ブッダ(仏陀)が語ったとされる仏教の経典には、次のような言葉が残されています。


「世のもろもろのことはすべて苦しみである」と叡智によって理解したならば、苦しみはなくなる。これが清浄に至る道である。

ー『日常語訳 ダンマパダ ブッダの<真理の言葉>』よりー


”叡智によって理解したならば”という言葉をコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の言葉で言い換えるならば、「イエス/聖霊と共に見るならば」というふうに言い換えられるでしょう。

聖霊/イエスとは、まさに、真理(神)の記憶を覚えている私たちの心の中の正気(正しい心)の部分のことを云います。

叡智(真理)の記憶を覚えている正気のほうから見るならば、もはやそこに深刻さもなければ、もちろん、苦しみもありません。

そこには、この世界とは一切関係のない(神の)絶対なる平安があります。

なぜなら、そこから見るならば、苦しみの正体(原因)を知る(悟る)ことができるからです。

苦しみの正体(原因)は、「自分で自分にそうしている」ということ以外の何ものでもありません。

しかしながら、私たちはその真実を自らに秘密裏にしていて、「自分は神(の子)ではない、自分は天国から追放されたのだ」と自分に嘘を教え込むことをやっているのです。

そのようにして、「私たちは神と一体(ワンネス)です」という真理を否定し続けているといえます。

それは、無意識的(無自覚)に、です。

ですから、私たちは真理を否定していることに自覚的になっていくことが求められているわけです。

というのも、自分で自ら真理を否定しているのだということを自覚/認識していくことによって、その訂正が可能となるからです。


あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである。真理を探し出す必要はないが、虚偽を探し出すことは確実に必要である。(T-16.IV.6:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社


要は、愛を阻む障壁を見つけ出していくこと、それが私たちがしなければならないことなのだということです。

私たちは今もなお、真理を否定しているわけですが、そのことを自覚して、それに対してNOとしていくということです。

それが、「真理の否定」を否定するということの意味です。


したがって、奇跡を行う者の務めは、真理の否定を否定することとなる。(T-12.Ⅱ.1:5)

奇跡講座/中央アート出版社


その実践をコースでは、「イエス/聖霊と共に見る」「幻想を真理のものとに運ぶ」という言い方をします。

イエス/聖霊と共に見るとき、この世界で経験しているそのすべては自分がでっち上げた夢である、ということを思い出させてくれます。

つまり、真の知覚へと訂正されるわけです。

その真の知覚を、コースでは「聖霊のヴィジョン」と呼んでいます。

そう、コース学習者の私たちはその聖霊のヴィジョンを修得(マスター)していくことを目的にコースの赦しの実践をしているのだと言うことができます。

真の知覚(叡智)がもたらされていくことによって、苦しみの正体を理解するようになるならば、もはや苦しみが苦しみではなくなるわけです。

コースはそのような道であると言うことができます。

それにちなんで、

今一度、ブッダが説いた言葉をコースの言葉に置き換えるとしたなら、


「世のもろもろのことはすべて苦しみである」と叡智によって理解したならば、苦しみはなくなる。これが清浄に至る道である。

ー『日常語訳 ダンマパダ ブッダの<真理の言葉>』よりー


という言葉も、

「この世界のすべては悪夢の夢である」と分かっている視点から聖霊と共に見るならば、苦しみはなくなる。これが神の平安に至る道である。

というふうに言い換えることができるでしょう。


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