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裁くことをやめられないときは、どうしたらいい?
裁き、攻撃が止められないとき
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていくとき、つい私たちは裁かない(攻撃しない/咎めない)自分になろうとします。
でも、私たちが覚えておかなければならないのは、コースはそのような実践をしていくような霊性の道ではないということです。
もし裁かない自分になろうとするならば、余計に自分を咎めてしまうことになってしまいます。
コースの実践で私たちがしていくのは、裁いている自分、攻撃している自分に気づいたなら、その自分を咎めずに見ていくということです。
そこでまた私たちが理解しておかなければならないのは、その「自分」は自我であって、裁くこと、攻撃することはやめられないのだということです。
つまり、自我が咎めることをしなくなることはないということです。
自我とはそういうものであるということを理解するようになるとき、私たちはその自我を咎めずに見ることができるようになっていきます。
ようするに、コース学習者の私たちは、自我と同一化してしまっている自分、つまり、自我になってしまっている自分に気づいていくこと、その自分を咎めずに見ていくこと、それが求められているということです。
それは、聖者みたいになっていきましょう!ということではないということです。
この世界を知覚しているということは、
分離を見ている=序列を見ている=差異を見ている
ということであり、
肉眼の目で知覚し続けるかぎり、ジャッジしない、差異を見ない、など不可能なのだということです。
そのように知覚することがいけないということではなく、それよって動揺が起きたなら、間違った知覚をしていることに気づいて、真の知覚へとシフトしていくことが私たちがしていくべき訓練なのだといえましょう。
その実践において、つい「自分」をもっとより良き自分へと変えようとしたくなるわけですが、そうではないということです。
その「自分」が聖者や賢者になっていくことを目指しているわけではないということです。
その「自分」は、間違った心の投影(の断片)でしかないわけです。
もっといえば、その「自分」はこの世界(夢)の中の登場人物としてシナリオ通りに反応しているにしかすぎないのです。
その登場人物(自分)を向上させようとするのは、その登場人物が実在しているということに加担することになるだけであり、分離(自我)の想念をより堅固にするだけです。
その「自分」こそが自我であり、つまり、実在していないわけですから。
ですから、コースの実践的なところから言えば、自分は心であることを思い出して、その心の自分、つまり、自我(の思考体系)と同一化している自分を聖霊と共に見る(聖霊のもとに運ぶ)ことをしていくのが、私たちがしていくことだということです。
これは原因についてのコースであり、結果についてのコースではない。(T-21.Ⅶ7:8)
つまり、心が原因なのであり、結果のレベルでいくら「自分」を変えたり、向上させようとしても何の意味もないということです。
ワプニックさんは云います。
「裁いている自分に気づいたなら、その自分を咎めずに(聖霊と共に)見なさい」と。
自分(自我)のしていることをただあるがままに見るということです。
変えるべきなのは、知覚の仕方のほうなのだということです。
だから、世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。(T-21.in.1:7)
ですから、
裁くことをやめられないとき、
誰かや何かへの咎めがとまらないとき、
誰かへの攻撃がやめられないとき、
そのときは、どうぞそのままの自分を赦しのまなざしで見てあげてください。
自我を変えようとする必要はないのです。
自我は自我のまま、ありのままを受け入れるのです。
ただ見て、ジャッジしないということです。
そのように自我を見て「これが自我である」と認識/理解していくとき、私たちは自我との同一化から自由になっていくことができます。
そうしていくならば、すべてに対してありのままに、あるがままを見ることができるようになっていきます。
それが、咎めずに見るという訓練であり、私たちが修得すべきものだということです。