問題があるところの同じ場所に、その解決法もある
問題は一つ、解決法も一つ
私たちが現実と捉えているこの世界では、様々な問題が形を変えて現れてきます。
次から次へとまるで問題が尽きることがありません。
私たちはその問題を解決することに日々追われていると言うことができます。
人生の大半がそのことで費やされているとさえ言うことができるでしょう。
私たちはそのようにして常に目の前の世界、目の前の人生と戦っているといえます。
コース(奇跡のコース/奇跡講座)の言葉で言い換えるなら、それが、「神と戦っている」ということの意味です。
私たちは自分自身と戦っているだけだということです。
というのも、目の前の外側の世界は、自分の心の投影でしかないからです。
コース学習者である私たちが赦しの実践をしていく上で忘れてはならない重要なことは、そもそもがこの世界(の夢)とはそのようなものであるという理解です。
この世界(の夢)は戦うことが可能だとした夢なのだということです。
つまり、この世界はそもそもが攻撃、裁き、争い、戦いの思考体系によって作り出された世界であるということです。
ようするに、この世界(の夢)は天国とは対極の世界(の夢)なのだということです。
ただし、私たちはその真実をまったく忘れてしまっています。
むしろ、私たちはこの世界に平安や喜びや希望があると思っています。
でも、学びと訓練を通してその形而上学が根付いていくことによって、「この世界は自我の思考体系がでっち上げた夢にしかすぎない」ことを次第に思い出せるようになっていきます。
そうなっていくなら、私たちは真の問題があるところへとアプローチしていくことができるようになります。
真の問題はたった一つであり、そして、その真の問題があるところの同じ場所に、真の解決法もあることも理解されるようになっていきます。
というのも、問題が認識されたとき、「赦し」が起こるからです。
つまり、赦しの視点を思い出すということです。
赦しの視点を思い出すとき、私たちは正気(の思考体系)に戻ることができます。
それをコースでは、「奇跡」と呼んでいます。
その赦しの視点のことを、コースでは「聖霊の視点」「赦しのまなざし」「ヴィジョン」などと呼んでいます。
そこから見るとき、自我と同一化している私たちが何をしているのか?がはっきりと見て取ることができます。
私たちは平安のないところで平安を探している、そして、幸せなどあり得ないところで幸せをさがしている、ということが認識されるわけです。
真の解決がないところで解決を探していたのだということが認識されるわけです。
その愚かさを認識している自分は、まさに正気の思考体系から見ているということです。
それが、自我を咎めずに見ている状態であり、コースでは、それを「聖霊と共に見る」という言い方をします。
その実践をしていくにつれて、自我が何をしているのか?をますます理解するようになっていき、ますます自我に気付けるようになっていきます。
いわゆる、自我と同一化しなくなっていくということです。
そう、それこそがコースの学習者である私たちが日々していく実践なのだということを覚えておきましょう。
内側も外側もなければ、向こう側もここもない
コースの学びと実践が深化していくにつれて、平安(聖霊)の教師と共に自我を見ていくことが自分の機能なのだということを自負するようになります。
実践的なところから言えば、外側の世界で起きていることよりも、真の解決があるところ、つまり、心の内側へとますますフォーカスしていくようになるということです。
いわゆる、フォーカスしているものが、形態(肉眼)から内容(心)へと移行していくということです。
それと共に、自分は「心(の決断の主体)」であるという自覚がますます起きてくると共に、その知覚も明らかに変わっていくといえます。
どのような知覚になっていくのか?というと、
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