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コースを学んでいる自分とは誰なのか?~神の教師としての在り方


「自分は心である」という自己認識

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は一元論(非二元)のスピリチュアリティであることはすでに周知の通りです。

その中心的な概念は、「この世界は幻想であり、実在しない」というものであるわけです。

それが意味するのは、つまり、「自分はこの世界の中に居る」と考えているその「自分」も実在していないのだということです。

世界はない。

他者はいない。

自分と思っているこの「自分/私」もいない。

すべては「心」が映し出した影にすぎないということです。

「投影」が知覚を作り出しているだけで、そのすべてが嘘なのだということです。


投影が知覚を作り出す。(T-13.V.3:5)(T-21.in.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


その「投影」に気づいていくことが、このコースの実践で私たちがしていく訓練だといえます。

「投影」に気づいていく訓練が習慣化されていくにしたがって、次第に、外側に世界は無い外側に他者はいない、ということが体験的に理解されていくようになります。

本当は、ここ(外側)には何も無く、自分は世界の夢(幻覚)を見ているだけであって、自分はその夢’(幻覚)に動揺しているだけなのだ、ということが自覚/認識されてくるということです。

それによって、自分の本性(自分は何者であるか)が次第に思い出されていくことになります。

つまり、真のアイデンティティーが自覚されていくだけでなく、真のアイデンティティーの自分はこの世界の夢とはまったく関係ないところに居るということが認識されていくのです。

その実践的手段をコースでは「赦し」と呼んでいるということです。

そして、自分とは何者か?という真のアイデンティティーを思い出していくことを「目覚め」と呼んでいるということです。

コースの言葉で表現するなら、自分は「心」であることを完全に思い出すことが私たちのゴールなのだということです。

要は、「心」の自分がこの世界の夢を見たくて見ているだけなのだ、という自覚/認識は、実践していくことによってしか深まっていかないということです。

それは知的に学んで理解していくのとはまったくちがうものだということです。

いくら「私たちは一つです」「私たちは一なる神の子です」と言葉で知的に理解したところで、それだけでは何の助けにならないということです。

それは、実践を通して体験的に理解されていくものであるということを
覚えておきましょう。

そして、それは完全に修得されるまで、その学びと実践はなされていくものだということも覚えておきましょう。

このコースはそのような実践的で実用的な霊性の道であるといえましょう。


神のひとり子としての自覚の芽生え

コースの学びが深まっていくにつれて、「自分は心である」という自己認識が思い出されていくことになるというのは、上記で述べた通りです。

見ている景観(知覚)もまったく異なるものになっていくということです。

どのようなものになっていくのか?

というと、

この世界の中で一個人の人間として生きながら、同時に、真のアイデンティティーはこの夢の外側にいる、ということを認識したところから生きるようになるということです。

つまり、神のひとり子である「心」の自分を自覚したところから、この世界の劇場に関わり始めるということです。

この世界、この人生、この肉体を使って、それらを「教室」として、「学習教材」として、真のアイデンティティーの自覚を完全なものにしていくために自分はここにいるのであり、そして学んでいるのだという自覚と認識なっていくということです。

そうなっていくとき、ワプニック博士の言葉はもっと深く入ってくるようになっていくといえます。


”『A Course in Miracles』は世界のためのものではありません。 それは数十万人のためのものではありません。 それはたった一人のためのものであり、そしてそれがあなたなのです。 あなたはそれを決して忘れてはなりません。 それはあなただけのためのものです、、、一つの心はすべての心です。”

ーワークショップ『The Happy Dream』ワプニック博士の講話よりー


それはたった一人のためのものであり、そしてそれがあなたなのです。

その言葉の意味は、「自分が見ているこの世界は、じつは、神のひとり子が見ている夢なのであり、その神のひとり子である自分がコースを学んでいるのだ」ということです。

その言葉から、ワプニックさん自身がその視点(視座)からこの世界を見ていたのだということが見て取れます。

その視点こそが、「心」の自分、つまり、神のひとり子を自覚している視点(聖霊の視点)だといえます。

そこから見るなら、世界はありません、他者もいません。

自分は「夢を見ている主体(者)である」という自覚/認識だけがあります。

もはやその自分は、自と他の利害の一致したところから見ています。

ワプニック博士の言葉を深く理解するようになるにつれて、彼こそまさにそれを実践して生きていたということがよく分かります。

つまり、「神の教師」として生きていたことが伺えるわけです。

ワプニック博士という先達がおられたことは、本当に有難いです。

ただただ感謝するばかりです。

と同時に、そのワプニック博士という人物も、夢の中の登場人物にすぎないということも忘れてはなりません。

結局のところ、教えているのは誰か?学んでいるのは誰か?というなら、学んでいるのも教えているのも神のひとり子の自分であるわけです。

それこそが神の教師としての在り方です。

いつかその在り方が完全に修得されるまで、私たちは学びと訓練をしていくのだということです。

そうなっていくために、私たちはコースというスピリチュアリティ(霊性の道)を歩んでいるのだということを忘れずにいましょう。


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