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私たちが本当に恐れているものとは
罪の感覚
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、「罪」という言葉(概念)が出てきます。
キリスト教の用語である「罪」という概念は、日本人である私たちにとってはなかなか分かりづらいし、あまりピンとこないという方が多いかもしれません。
でも、
「自分は何かいけないことをしてしまった、、、自分は何かマズイことをしてしまった、、、自分は何か至らない点があるんじゃないか、、、いつか自分は捕らえられて、天罰が下されるのでは、、、処罰されるのでは、、、何かひどい目に会うのでは、、、」
といったような感覚は、大なり小なり、誰にも思い当たるものです。
罪の感覚とはそういうものだと捉えると分かりやすいかもしれません。
もし、「自分にはそんな罪の感覚はない」と言っているとしたなら、それはただ単に否認(抑圧、隠蔽)しているだけです。
罪(罪悪感、恐れ)は、この世界にいる誰もが共通して必ず内側に持っているものであるわけです。
というのも、もし罪がないとしたなら、そもそもがこの世界に私たちは居るわけがないからです。
もし罪がないとしたなら、神との一体性(ワンネス)の中で安らいでいるはずです。
もし罪がないとしたなら、わざわざこの世界にやってくる必要もなければ、そもそもこの世界(の夢)自体が必要がないというものです。
私たちがこの世界に居るということはそういうことなのだということを、コース学習者であるならば理解しておきましょう。
そこに罪が見えなかったとしたら
コースを学んでいる私たちが目指しているものは、この世界を超えていくこと、二元性を超えていくことだと言うことができるでしょう。
つまり、それは、この世界の存在自体が何の意味もないと悟ることであり、この世界が「無」として知覚されるようになることなのだといえます。
この世界、そしてこの自分も、すべてが「無」であることを完全に悟ること、それを、コースでは「贖罪」と呼んでいます。
ただし、私たちが知っておかなければならないのは、私たちの無意識では贖罪を受け入れることをひどく恐れている、ということです。
つまり、「罪が無い」ことが明らかになることを私たちはもっとも恐れているということです。
もしあなたが内側に目を向け、そこに罪が見えなかったとしたら、どうだろう。 この「恐ろしい」質問は、自我が決して尋ねることのない質問である。(T-21.Ⅳ.3:1-2)
もし罪が無いとしたなら、この「私」も、この「私」が愛する人も、この「世界」のすべてが無に帰することになるわけです。
つまりは、そのすべてが嘘だとなってしまうということであり、「私はいない」「世界はない」となってしまうわけです。
そう、じつのところ、私たちは、その真実が明らかになることをとても恐れているのだということです。
私たちは、この「私」も、この「世界」も、嘘ではなく、現実であってほしいと思っています。
もしすべてが嘘(幻想/無)だとしたなら、それは私たちをとても恐れさせるわけです。
つまり、私たちは、「私はいない、世界はない」という真理をひどく恐れているのです。
それゆえに私たちは「自分はこの世界に存在している」ということを証明したくて、そのために私たちは肉眼で見ているこの世界を知覚しているということなわけです。
いわゆる、真理に対する防衛のために、この世界を、この肉体(身体)を、その証拠として使っているということです。
本当は、この今も天国にいるにもかかわらず、この世界(幻想世界)を知覚するほうを選んでいるのです。
それによって、「私は存在している」「世界は実在している」と証明することができるわけです。
肉眼で見ているこの世界を知覚していること自体がそういうことなのだということです。
ようするに、私たちは、「この牢獄から解放されて天国に帰るよりも、罪人のままこの世界に居続けたい、、」と願望し続けているということです。
そのようにして、真理を否定し続けているのです。
それが、この世界にいる私たちがしていることです。
なんという狂気さでしょう!
ただ、私たちは、その狂気さをまったく自覚していません。
私たちは「心を忘れた状態」になっていて、そのことを自覚することができない状態になっています。
その狂気さがまったく認識できないのです。
ですから、私たちはその狂気さ(自我の思考体系)を自覚できるようになるためにコースを学んでいると言うことができます。
二重の盾を超えて
コースの思考体系(コース形而上学)を理解するようになっていくにつれて、私たちは自分たちの狂気さを認識するようになっていきます。
「自分はまともじゃない、自分は正気じゃない」ということを自覚/認識していくようになるわけですが、
それに伴って、自分(の心)を正気に戻したい(癒したい)とますます望むようになるといえます。
なぜ、自分は幸せではないのか?
なぜ、自分は幸せになれなかったのか?
なぜ、苦しみは生じるのか?
その苦しみはどこから生じるのか?
コースが教えていることの理解が深まっていくにつれて、その原因を真に理解するようになります。
真の原因は、罪(罪悪感、恐れ)を自分で自ら信じたがっているということです。
私たちは、自分の内側に正気になっていくとき、むしろ、罪(罪悪感、恐れ)があってほしいと誓っているのが自覚されるようになります。
それは、コースの中では「秘密の誓い」(T-28 .Ⅵ)というふうに述べられています。
なので、直視されることによってそのことが暴かれること、さらには、すべてが嘘(幻想/妄想)だと悟られてしまうことを何よりも恐れているわけです。
でも、それらは直視されないかぎり、私たちの内側に「罪」が秘密裏に隠されたままになっているのです。
なので、
コース学習者の私たちは実践において、何をしていくのか?
というならば、「二重の盾」を通り抜けていかなければならないということです。
まずは、すべての問題の原因は自分の内側にあるのだと認識し、内側に隠されている罪(罪悪感、恐れ)を見つけ出していくことです。
そして次に、その罪(罪悪感、恐れ)すらも、自分(の心)がでっち上げた妄想なのだと認識していくということです。
その二重の盾を通り抜けて、「自分で自分にこれを行っているだけ」(T-27.Ⅷ.10:1)と分かっている視点に戻っていくことが私たちがしていくことだといえます。
その手段が「赦し」というものであり、そして、それがコースの実践を通して私たちが修得していくべきものであるということを覚えておきましょう。