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このコースはけっして曖昧なスピリチュアリティとして学ばれるべきではない
苦集滅道
最近は、ノンデュアリティのスピーカーさんがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えを取り入れて発信していたりするのを目にします。
たしかに、同じ非二元(一元論)のスピリチュアリティとして共通する部分もあるといえます。
ただその一方で、コースの教えが都合のいいように歪曲されてしまっているのは否めません。
つまり、非二元と純粋な非二元のちがいを指摘せざるを得ないということです。
そこははっきりと明確にしておいたほうがいいように思うわけです。
というのも、コースの教えを理解するようになるならば、コースはまさに純粋な非二元の霊性の道であることが明らかになるからです。
ようするに、巷の悟り系のスピリチュアリティとコースは、似て非なるものであるということです。
むしろ、それらを同じものとして混同してしまうならば、もはやコースを学んでいくことも、その教えを体現していくことも不可能となってしまうといえるでしょう。
たしかに、コースは非二元の霊性の道なわけですが、その内容は非二元についてや真理について学んでいくような霊性の道ではないということです。
その教えはもっと実用的で実践的なものだといえます。
例えば、「この世界は幻想です」「私たちはワンネスです」「すべては愛です」「苦しみなどないのです」など、非二元の教えをいくら知識として知的に学んだとしても、日常ではほとんど役に立たないと言うことができます。
実際には、私たちはこの世界の中で動揺させられ、脅かされ続けては、まるで心休まることがないわけです。
それを紛らわすために、ごまかすために、上記のような都合のいい真理
(非二元)の言葉を並べ立てて一時的な安心や喜びといったもので満足させたところで、何の解決にもなってないわけです。
(否定するわけではありませんが、)まさに、「ノンデュアリティ(非二元)」と呼ばれている巷の悟り系のスピリチュアリティがそのようなものだといえましょう。
つまり、ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティであるはずのものが、もはや二元性のスピリチュアリティに成り下がってしまっていると言わざるを得ないということです。
本当の幸せや平安はこの世界の夢の中にはないというのに、この世界の夢の中で幸せに、平安になろうとする、それこそが二元性のスピリチュアリティの特徴だといえます。
非二元の観点から見るならば、この世界は無です。
「この世界は実在していて、この世界の中に自分は居る」と信じているそのこと自体が苦しみなのだとは、彼らはまったく気づいてなどいないのです。
そのことを認識しているノンデュアリストは少ないといえましょう。
ですから、その根本的なところから認識しないかぎり、非二元の霊性の道の歩みははじまらないといえます。
そのことについて、コースでは以下のように述べています。
ひたすら不幸に献身しているあなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。聖霊はこの対照性なくしては教えることができない。というのも、あなたは不幸こそが幸福だと信じているからである。(T-14.Ⅱ.1:2-3)
いかに自分たちは不幸で惨めであるか?
コースを学んでいくにおいて、まずはそのことを認識することが最低限私たちに求められているということです。
その認識なしに、コースを学んでいくことはできないということです。
言い換えるなら、そのことを認識していくことが、私たちがこの世界の夢から目覚めていくための第一歩となるということです。
「目覚め」とは、不幸と惨めさからの解放ともいえますし、苦しみからの脱却だと言うことができます。
そう、私たちはすべての苦しみから脱却することが可能なのであり、そして、その実践的な方法があるのだということです。
そして、そのための手段をコースでは「赦し」と呼んでいるということです。
ちなみに、仏教の開祖である釈迦も、同じ内容のことを「四つの真理(四諦)」として、その教えを説いています。
一つめの真理、この世のすべてが苦しみである、一切皆苦(苦)
二つめの真理、すべての苦しみには原因がある(集)
三つめの真理、苦しみを滅する(苦しみから脱却する)ことができる(滅)
四つめの真理、そのための道(方法)がある(道)
(「苦集滅道」とは、そういう意味です)
これは、目覚め、悟りへ至るための道であるともいえますし、実践的なところからいうなら、苦しみからの完全なる脱却のための道なのだということです。
それは、一元論のスピリチュアリティと呼ばれる霊性の道であり、コースもそのような霊性の道だと言うことができましょう。
もちろん、コース以外にもさまざまな一元論(非二元)のスピリチュアリティがあるわけで、コース(『ア・コース・イン・ミラクルズ』)は、その中の一つの霊性の道にしかすぎません。
でも、私自身、コースの学びが深まっていくにつれて実感するのは、コースは他のさまざまな一元論のスピリチュアリティと比べても、かなりの優れモノであるということです。
コースの学びが深まっていけばいくほど、ますますそのような見解に至る次第です。
たしかに、コース以外にもその道はたくさんあります。
ですから、必ずしもコースでなければならないということでもありません。
しかしながら、コースを学びはじめておきながら、わざわざまた別の非二元の霊性の道を探す必要などあるでしょうか?
コースが教えていることを真に理解するようになるならば、逆にコースが優れた非二元の霊性の道だということを理解することでしょう。
コースの何が優れているのか?
というなら、コースは心理学の学術的な側面からその形而上学が構成されているということと、体系立てられたその形而上学だといえるでしょう。
コースの形而上学には、(とくにワプニック博士の解説するもので学んでいくならば、)神秘的なものであったり、信仰的なものであったり、あるいは、ふわふわしたスピリチュアリティのような曖昧さが一切ありません。
学べば学ぶほど、その曖昧さはなくなっていくどころか、むしろ、明晰になっていくといえましょう。
ふつうは、「悟り」について語るとき、「あぁでもない、こうでもない」というな禅問答のようなことになってしまいますが、コースの学びにおいては、そういうことは一切ないといえます。
というのも、コースをしっかり学んでいくならば、(正確に学んでいくならば、)どのような形而上学のもとにどのような実践をしていけばいいのか?ということがより具体的で、より明瞭になっていくといえます。
逆にもし、学んでも学んでも明瞭に、明確に、明晰になっていってないとしたならば、つまり、祈りや信仰のような学び方や実践をしているとしたならば、正しくコースが学ばれていない(歪曲されている)と言うことができましょう。
コースは心理学に基づいた教えということもあり、アカデミック(学術的)に学んでいくことのできる霊性の道であるということを知っておくと良いでしょう。
知的理解と体験的理解のちがい
コースは学術的に学んでいくことのできるスピリチュアリティだと申しましたが、その学びについて述べるならば、「学び」と言いましても、そこには二つの段階における理解があるということを知っておきましょう。
一つめの学びが、形而上学上の知的理解の段階。
そして二つめの学びが、実践を通しての体験的理解というものです。
そして、真に「学ぶ」とは後者の学びのことを言っているということです。
つまりは、それは実践の中でしか学ばれていかないということであり、実践を通してしか真の理解はないのだということです。
ただ、その実践をしていくためには知的レベルにおけるしっかりとした理解がなければあり得ないわけで、形而上学的な知的理解ももちろん大事であることに変わりありません。
私たちが知っておかなければならないのは、コースの教えをいくら知的に理解していたとしても、その訓練(実践)がなされていないならば何の意味もなさないどころか、知的レベルの理解に留まるだけで、本当の理解にいたることはないということです。
それは実際に実践を通して、体験的理解として根付かせていく必要があるということです。
つまり、知的理解と体験的理解との間には、訓練がなされているか?訓練がなされていないか?によって雲泥の差があるということです。
それは、訓練(実践)がなされてこそ理解され、深まっていくものであるということです。
「根付かせる」「修得する」ことが成されていないならば机上の空論になってしまうだけでなく、形而上学を概念で弄ぶことになってしまいかねないわけで、そういうことは、とくに、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティにおいてはよくあることだといえます。
だからこそ、コース学習者の私たちはそうなってしまわないように警戒していなければならないといえましょう。
コースの思考体系を修得していくということは、それは完全なものになるまで、つまり、自分にとって当たり前で自然なものになるまで、その学びと実践をしていかなければならないのだということを知っておきましょう。
コースの学びの過程において、私たちは「すべては無(虚偽)である」ということを体験的に理解するようになっていくわけですが、その理解はそこに留まるわけではないということです。
自分とは何者か?
自分はどこにいるのか?
自分は何をしているのか?
そういったことが思い出されていくことになるだけでなく、愛の延長という実践になっていくということを知っておくと良いでしょう。
「すべては虚偽である」と悟ることことも、「自分は何者か?」を思い出すということも、どちらも同じ一つのものであるということです。
「目覚め」とは、そういうものです。
コースをしっかり実践していくならば、そしてその学びが深まっていくならば、その知覚もこれまでとはまったくちがったものになっていくということです。
その知覚こそが、「真の知覚」と呼ばれているものです。
そういう意味で、このコースは「真の知覚」の仕方を学んでいく道であり、「真の知覚」を修得していく道であるといえましょう。
「真の知覚」の修得に伴って、真のアイデンティティーが思い出され、体現されていきます。
その達成は実践なしではけっしてあり得ないということです。
コース形而上学をいくら詳しく理解していたとしても、それが実践され訓練されていないならば、それが成し遂げられることはないということを肝に銘じておきましょう。
要約するならば、
このコースは「目覚め」「悟り」といったものをゴールとして目指しているスピリチュアリティであるということです。
実践的なところからいうならば、このコースは自我からの完全なる脱却、つまり、苦しみからの完全なる脱却を目指しているということです。
仏教では、それを「苦しみの止滅」と呼んでいますし、また、コースではそれを「贖罪」と呼んでいます。
そして、コースでは、そこから知覚している世界を「実相世界」と呼んでおり、そのような知覚へと完全にシフトしていくためにコースの学習者の私たちは訓練しているのだということです。
要は、このコースはけっして曖昧なスピリチュアリティとして学ばれるべきではないということです。
このコースはしっかりとした形而上学とカリキュラムによって学術的に、そして着実に学ばれていくべきスピリチュアリティであるということをわきまえて学んでいくことをおすすめしたいということです。