「自分」をどう認識しているか?「自分」を何者だと思っているか?

「夢の主人公」から「夢を見ている者」へ

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、個人の自分は夢の中の主人公にすぎないことが認識されるようになっていきます。

つまり、この世界の中に居ると信じている「自分」は世界の夢の中の登場人物の一人にすぎなくて、その個性や個人性といったものは、その登場人物に与えられたキャラクターにしかすぎない、という理解になっていくるということです。

個人の自分などいない、本当は実在していないのだと分かってくるわけです。

そして、この世界の夢を作り出したのはこの自分であり、そして自分はその夢を見ているだけなのだと自覚/認識されていくと同時に、それまですっかり忘れられていた新たな自己認識(アイデンティティー)が自覚されるようになっていきます。

つまりは、「夢の主人公」であった自分から「夢を見ている者」の自分へとアイデンティティーがシフトしていくのが実感されていくということです。

そう、その「夢を見ている者」である自分、つまり、コースで言う「心」の自分を完全に思い出すことが、コース学習者である私たちが目標としているものであるということです。

コースでは、それこそが私たちにとっての唯一の救いなのだと教えてくれています。


救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。(T-27.Ⅷ.10:1)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちコース学習者が赦しの実践を通して思い出していくべきこととは、まさにこれだと言うことができます。

私たちは、この世界の被害者ではないということです。

なので、その実践は、自分は「夢を見ている者」として自覚したところから自我が行っていることを眺める(見る/観照する)ことをしていくわけです。

それを、コースでは、「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」というふうな言い方をします。

実際に、そこから聖霊と共に見るならば、そこに見ているすべてがまさにワークブックのレッスン1で示されている通り、「自分がこの世界に見ているものそのすべてが、何の意味もない。」と見ることができます。

同時に、もう一方で、

「自分の見ているものは実在している」と強く信じている自分も自覚/認識されます。

いわゆる、自分はその双方が見える視座に居ることが自覚/認識されてくるわけです。

その双方が見える視座こそが、「決断の主体」と呼ばれている場所です。

いわゆる、そこが、真の選択肢(真の原因)に立ち戻った場所です。

つまり、いついかなるときもその場所(いまここ)に戻っていくことで、本当の自分(真のアイデンティティー)が思い出されていくということです。

決断の主体の視座に立ち戻るならば、自分は「夢を見ている者」だと自覚することができます。

そうでないときは、自分は「夢の主人公」となっています。

ですから、コース学習者である私たちがしていく訓練は、「自分」をどう認識しているか?それが重要事項になっていきます。

ようするに、

「夢の主人公」として見るのか?「夢を見ている者」として見るのか?

という訓練になるわけです。

そして、それをコースでは、

自我を教師とするか?聖霊を教師とするか?

というふうな言い方をしているということです。

自分を「夢の主人公」としているときは、自我の教師と共に見ることになりますし、

片や、自分は「夢を見ている者」であると認識しているとき、それが聖霊を教師と共に見ていることになります。

どちらの教師と共に見るのか?

私たちは、毎瞬毎瞬、その選択肢にいるのだということです。

そして、その選択によって知覚(解釈)が大きく異なるということです。

そしてもちろん、聖霊を教師とした視座から見ることが、私たちコース学習者が訓練を通してマスター(修得)していくべきものだということを覚えておきましょう。


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