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私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない

私たちはこの世界の被害者ではない

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていくと分かるのですが、自分は常に何かや誰かに対して裁き、咎め、攻撃をし続けていることに気づくようになっていきます。

つまり、自分は自我と同一化してしまっていることを自覚するようになるわけです。

そのたびに、またその自分を咎めたりします。

そこで私たちがコースの実践でしていかなければならないのは、そのような自分(自我)を咎めずに見ることをしていくということです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、怒ってはいけない、裁いてはいけない、攻撃してはいけない、というふうにはけっして云っていません。

怒り、裁き、攻撃がいけないということではなく、それらを正当化しないようにと、コースの実践では求められているということです。

自分を咎めたり裁いたりして罪悪感を強めることが、コース学習者の私たちにとってもっとも望まれないことです。

怒り、裁き、攻撃、そういったものを自分の内側に見たならば、それは自我の教師を選んでいるということであり、それに気づいたならば、それをよしとはしないという意欲が求められているのです。

つまり、罪悪感を強化することを望まない!と意志するということです。

それが、正当化しない、ということです。

つまりは、被害者にならない、ということです。

「だって、自分は○○だから。だって、あの人が○○だから、あれが○○だから、、、」というふうに外側の世界の被害者にならないということです。

何かのせい、誰かのせいにしないということです。

それは、不安、不平不満、憂鬱感、惨めさ、、、といったすべてに当てはまります。

何かや誰かのせいにしないということは、「自分が感じていることについて、自分の心の外側にあるいかなるものにもその力はない」ということを意味します。

逆に、何かや誰かのせいにするならば、自分はその側の世界の被害者になってしまうわけです。

すべては自分に責任があるとしていくこと。

その選択は、自分の内にあるということ、それを思い出していくことがコース学習者の私たちに求められていることです。

実践的なところで言えば、投影に気づいていくということです。

そうしていくなら、自分から被害者になりたがっていることや、自分から外側のものに平安を奪う力を与えていることに気づけるようになっていきます。

その実践をしていくための有益なワークブックレッスンが、以下のレッスンです。


私は自分が考えているような理由で、動揺しているのではない。(W-p1.5)

奇跡講座/中央アート出版社


このレッスン5は、投影に気づいていくためのレッスンだといえます。

いわゆる、「赦しの3つのステップ」の第1ステップです。

私たちは、けっしてこの世界の被害者ではない(W-p1.31)のです。

そのことに気づいていくことが私たちにとっての救いの鍵となることを忘れてはなりません。

外側の何かや誰かのせいにするのではなく、つまり、外側に罪を見るのではなく、自分の内側にその原因を見ていくことによって、「自分は外側の被害者ではない」ということが自覚されていきます。

すべては虚偽であり、何も起きていないということも、彼らは何もしていないということも、さらに言えば、外側には誰もいないことも体験的に理解していくようになります。

それと同時に、外側のものと自分の内側の平安とは一切無関係である、ということも明らかになっていきます。

つまり、外側の彼らの無垢性を見ることで、自らもまたそうなのだと学んでいくことになります。

そしてそのようにして、実践を通して自分が赦されるとき、自分一人が赦されるわけではないことを体験的に理解するようになっていくわけです。

そして、下記のワークブックレッスン137の言葉の意味も理解するようになります。


私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。(W-p1.137)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの学びが深まっていくとき、肉眼ではたとえ私たちはバラバラに存在しているように見えていたとしても、自分たちは神のひとり子であり、一なる心なのだということを思い出すようになっていきます。

そう、コースの学びと実践によって、そのような真の知覚(ヴィジョン/心眼)へとその扉は開かれていくことを知っておくと良いでしょう。


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