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正統ノンデュアリティと似非ノンデュアリティとを見分ける

「ネオ・アドヴァイタ」というスピリチュアリズム

みなさんは、「ネオ・アドヴァイタ」という言葉をご存じでしょうか?

私も最近、その言葉を知りました。

(※興味がある方は、『ネオ・アドヴァイタ』についてもっと詳しく調べていただくことを奨めします。)

「ネオ・アドヴァイタ」とはどういう意味か?というなら、アドヴァイタはシャンカラが起源なわけですが、シャンカラの正統アドヴァイタからみるならば似非アドヴァイタという意味でそう呼ばれているということです。

要は、似非のノンデュアリティのスピリチュアリズムのことを「ネオ・アドヴァイタ」というふに呼んでいるということです。

つまり、古典ノンデュアリティと比べるとまったく浅はかなスピリチュアリティに成り下がってしまっている巷の悟りやノンデュアリティのスピリチュアリズムのことを、似非ノンデュアリティというふうに位置づけて、「ネオ・アドヴァイタ」というふにジャンル分けされているということです。

似非(えせ)ノンデュアリティの特徴は、真理を一瞥しただけにもかかわらず、まだまだその先にも霊的成熟に至るプロセスがあるにもかかわらず、これが悟りだ、これが目覚めだと思い込んでいる未熟なスピリチュアリズムだと言うことができます。

語られている言葉はたしかに真理ではあっても、それを語っている本人がその境地に至っていないにもかかわらず、あたかも、「目覚めた者」「悟った者」として扱われていることがその特徴だといえます。

そのように「悟り」や「ノンデュアリティ」というものを知的に知っただけで、あるいは、一瞥しただけで、「悟った者」「目覚めた者」として振舞いはじめ、教師になって語りはじめる人たちは後を絶ちません。

それによって、本来のノンデュアリティの霊性の道がまったく歪曲化、矮小化されてしまっていると言うことができるでしょう。

もはや「悟り」や「非二元」という言葉が概念で弄ばれている状態になっているだけでなく、「ノンデュアリティ難民」「スピリチュアル・ジプシー」と称されるような道に迷っている探究者たちが続出している状態になっていると言わざるを得ません。

なにせ、ほとんど同じ言葉でノンデュアリティの教えが語られるので、似非のノンデュアリティと本来のノンデュアリティの違いを見極めるのは、それなりの探究者でないと分からないわけです。

ただ言えることは、そういうことは現代にはじまったことでもなく、悟りやノンデュアリティ(非二元)において、そのような悟ったふり、覚者のふりをして真理を語る者たちというのは、古来の昔から普通に存在したということです。

悟りを熟達(マスター)したわけでもないのに、そのような勘違いをする者たちがいるのは、今も昔も変わらないということです。

自分は悟りに至っている、目覚めていると信じているかぎり、もはやどうしようもありません。

そういうのを仏教では、「無知」「根本無明」と呼んでいます。

そういうことから申しましても、「無知の知」がいかに重要か?が分かります。

なにせ、私たちは霊的においてまだまだ未熟であるがゆえに、悟ったふり、目覚めたふりをしたがるということです。

私たちは霊性の道(スピリチュアリティ)ですらも自我の隠れ蓑にするということに十分警戒しなければなりません。

特に、本気でこの霊性の道を歩んでいこうと思っているのならば、なおさらです。

「古典のノンデュアリティ」と「巷のノンデュアリティ」とはまったくの別物だということを知っていきましょう。

その違いを見分けることは重要です。

似非のノンデュアリティに振り回されないように、そのために霊的にも私たちは成長していかなければならないということです。

批判がましい言い方になりますが、巷の悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティをみるならば、違和感を感じずにはいられません。

その違和感とは、霊的な幼稚さ、稚拙さというものなわけですが、自分自身がこれまでそうだったということを認めざるを得ません。

なにせ、「ノンデュアリティ(非二元)」と称されるスピリチュアリズムのほとんどが、じつのところ、「ネオ・アドヴァイタ」というジャンルにくくられるものであるということです。

その違いをしっかり理解/認識していくことは、霊的に成長していく上で、私たちに求められていることだといえましょう。


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