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この世界を赦しのレッスンの場としての「教室」としていくために
「牢獄」とするのか?「教室」とするのか?
「この世界を知覚している」ということがどういうことなのか?
私たちは、その真実をまず知る必要があるといえましょう。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えからいうならば、「この世界を知覚している」というそれこそが「神を拒絶している」「天国を拒絶している」ということなのだということです。
また別の表現でいえば、「肉眼の世界を見ている」ということが、ヴィジョン(心眼)の知覚を拒絶している、ということなのだということです。
それが、この世界にいる私たちにとっての真実なわけです。
つまり、私たちは本当は天国にいるにもかかわらず、あえてそれを拒否して、妄想で作り出したこの世界を見ているだけなのだということです。
私たちが見ているこの世界はそういうものであり、神の子である私たちはこの世界を使ってそういうことをしているということです。
ようするに、コースは、「この世界を知覚している」ということ自体が、つまりは、喜び、平安、幸せ、愛を拒絶しているということであり、そしてそれが、神を攻撃(殺害)しているということなのだと教えてくれているということです。
さらに、私たちが学ばなければならないのは、じつのところ、私たちはその真実を心(の無意識)のどこかで知っていながら、忘れたふりをしているということです。
なにせ、愛を拒絶しているわけですから、愛が欠如していると感じているわけです。
私たちはそれを「欠乏/罪/罪悪感/恐れ)」として感じています。
いつもなにか足りてない、満たされない、自分は何か欠けている、このままじゃダメだ、不完全だ、平安でいられない、、、、と感じていることが、つまりはそういうことです。
私たち誰もが皆、心の奥底でいつもその感覚を感じています。
それを、コースでは、「欠乏の原理」と呼んでいます。
私たちは、その「欠乏の原理」にただ突き動かされ続けているだけなのです。
それは、無自覚(無意識)に、です。
ですから、コースの学びと実践を通して、私たちはそのことを自覚/認識していくことが求められているのです。
コースの学びが進んでいくにつれて、自分は自我の思考体系を信じているだけでなく、自我と同一化していることが自覚できるようになっていきます。
自分は自我(の移行体系)と同一化していて、自我になってしまっていることを認識できるようになっていきます。
私たちはその自分(自我)を自覚/認識して、そして、その自分(自我)を咎めずに見ていくことがその実践なのだということです。
その実践は、自我を手放していくというものではありません。
私たちがしていくことは自我を手放すとか、自我を変えようとすることではありません。
もしそうするならば、自我と闘うことになりますし、むしろ、自我に力を与えることになり、自我に実在性を与えることになります。
つい自分で自我を何とかしようとしていまいがちですが、コースの実践で私たちがしていくことは、自我と同一化してしまっている自分を認識して、その自分を咎めずに(聖霊と共に/判断せずに)見ていくということです。
赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pⅡ.1.4)
そしてそれを、コースでは「聖霊と共に見る」「自我を聖霊のもとに運ぶ」というふうに呼んでいるということです。
聖霊と共に見るとき、つまり、正しい心の視点から見るとき、そこから見るすべてが虚偽であることが明らかになります。
すべてが嘘ででっち上げられた幻想にしか過ぎないと分かるわけです。
それが私たちにできることであり、それが私たちがしていくことです。
それを、コースでは「赦し」と呼んでいます。
それが私たちに与えられた機能であり、それ以外に、私たちがすることは何もないと、コースは教えてくれています。
要は、私たちはこの世界を知覚しながらもこの世界をまったくちがったふうに知覚することができるのであり、私たちはコースの学びと実践を通してそれを学んでいるのだということです。
この人生をその目的で生きるようになるとき、自分たちがいるこの世界が、そしてこの人生が、そのためのレッスンの場としての「教室」として知覚さるようになっていきます。
この世界やこの人生を、死が訪れるまでの「牢獄」として捉えていくのか?
それとも、
この世界の夢から目覚めていくための「教室」として捉えていくのか?
その選択は、毎瞬毎瞬、私たち自身の決断にゆだねられているのです。
そのことが「赦し」の実践を通して、どんどん自覚/認識されるようになっていきます。
そのようにして私たちは、自分が誰であるか?を思い出していくことになるのだということを知っておきましょう。