コース学習者の私たちが実践でフォーカスしていくべきものとは
コースという霊性の道の特徴的なところ
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、私たちが知っておかなければならないのは、コースは非二元の霊性の道ではありますが、愛や真理について学んでいくようなスピリチュアリティではないということです。
そのことについては、コースのテキストの序文ではっきりと述べられています。
それがどういうことかというと、私たちがしていく実践は、いわゆる、神、愛、光、喜び、平安、静けさにフォーカスしていくというものではないということです。
もちろん、愛や喜びや平安に触れるような体験をしていきますが、そういうことは重要視してはいないということです。
むしろ、私たちがしていかなければならない重要なことは、愛や平安を妨げている障壁を見つけ出していくことなのだということです。
それというのも、その障壁は認識されることによってのみ取り消されるわけで、それこそがコースの実践で私たちに求められていることだからです。
それゆえ、コースは「undiong(取り消し)」「unlearning(白紙に戻す)」の霊性の道と呼ばれているわけです。
いうなれば、それこそが他のスピリチュアリティ(霊性の道)とはちがった特徴的なところだといえましょう。
愛を阻む障壁を見つけ出す
私たちがコースの実践をしていくとき、
いかに自分は神の愛を恐れているか、
いかに自分は平安を避けているか、
いかにイエス/聖霊を拒否しているか、
そして、
いかに自分は恐れを握りしめていたいことか、
いかに自分は自我を手放そうとはしないか、
いかに自分は自我の声を聞き続けているか、
そういうことが自分の中にはっきりと自覚/認識されていきます。
コースのイエスはそのことをもっと自覚するようにと促しています。
コースの教えていることが理解されていくにしたがって、自分たちが何をしているのかがますます自覚/認識されるようになっていきます。
つまりは、毎瞬のように自我の狂気の声に耳を傾け、その声を聞き続けていることが自覚/認識されていくということです。
そのことを自覚/認識していくとき、「愛の現存を見えなくしている障壁」「愛を阻む障壁」という言葉の意味がようやく理解されるようになります。
そう、そのことを自覚/認識していくこと、しかも、咎めずに見ていくことが、コースの実践で私たちがしていくことなのだということです。
むしろ、そのことを自覚/認識せずに、私たちはどうやって自我の狂気の声から自由になることなどできるというのでしょう。
コースの実践で私たちに求められているのは、「愛を阻む障壁」を見つけ出していくことなのだということを忘れずにいましょう。
なぜなら、それは見つけ出されて認識されてこそ、訂正(取り消し)が可能となるからです。
そいういうことでいえば、コースはまさに訂正、取り消しのスピリチュアリティ(霊性の道)であるといえましょう。
そう、その訂正のことを「奇跡」と呼んでいるということです。
何度も申しますが、このコースは、「愛の現存を見えなくしている障壁」「愛を阻む障壁」を見つけ出して、取り消していく、そういう霊性の道なのだということです。
コースは愛や神や真理を見い出していくような霊性の道ではないということです。
そうではなく、それを阻んでいる障壁のほうに気づいていく、自覚していく、認識していく、直視していく、そういう霊性の道だということです。
コースは本来そういうことを教えているわけですが、私たちはなかなかコースがそういう教えであるとは理解しようとはしません。
だからこそ、コースの道を歩んでいこうとするなら、
コースという霊性の道はどのようなものなのか?
コースの教えの理論的なところ、つまり、コースの形而上学をしかり学んでいくことは必修科目だといえます。
コース形而上学をしっかり理解していくことは、コースの道を歩んでいく上でとても重要であるどころか、それなしにはあり得ないのだということを肝に銘じておきましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?