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幸せな学習者となっていくために私たちが自覚しなければならないこと


決断は無意識のレベルでなされている

真理からいえば、私たちは神と一体の神の子であり、愛と喜びと幸せに満ち溢れているはずなわけです。

でも、自分自身に正直になるならば、まったくそうではない自分を自覚することができます。

むしろ、いつも何か足りていない、満たされていない、という想いにかられているのを認識することができます。

つまりは、それが自我の分離の思考体系を信じている、つまり自我を教師としているということです。

じつのところ、私たちはあえて自ら望んで不完全で惨めな自分をただ体験して(演じて)いるだけなのです。

本当は愛に満ち溢れた神の子こそ真の自己であるにもかかわらず、その神の子が天国とは対極の体験をするためにわざわざニセモノの自分になって、自分で自分を欺き続けているのです。

それが私たちがこの世界でしていることです。

私たちコース学習者はコース形而上学の学びと赦しの実践を重ねていくことで、そのことを認識することができるようになっていきます。

むしろ、そのことを認識していくことが私たちに求められているものだといえましょう。

そこで言うことができるのが、コースの思考体系(形而上学)の理解がないならば、それが認識されることはないということです。

というのも、「自我を選択する」というその決断は私たちの自覚していない無意識のレベルでなされているからです。

コースの実践においては、その無意識のレベルにアプローチしていくことをしていくわけです。

それにはコース形而上学の理解が必須であるということです。

そう、コース形而上学の理解に基づいて実践していくとき、コースで述べられていることがその通りだと明らかになっていくのです。

そして、その方法(手段)が「赦し」なわけです。

ようするに、「赦し」が実践できるようになるためには、コースの思考体系(形而上学)をしっかり理解しておくことが必須であるということです。


幸せな学習者であるために

コースの形而上学を理解するようになってくると、私たちはあえて自ら望んで平安や幸せを拒絶し続けている、ということが自覚/認識されてきます。

自ら平安や幸せを拒絶し続けているにもかかわらず、その自分はこの世界で何をしているのか?というなら、

「惨めな自分にはなりたくない」と思いながら生きているのです。

なんという自己矛盾でしょう。

コースが教えてくれているように、私たちはまさに葛藤を抱えながら生きていることが分かります。

葛藤していることが何を意味するのか?

というと、つまりは、私たちは心(精神)が分裂しているということです。

その分裂している心(精神)が癒されないかぎり、私たちに本当の平安や、本当の幸せはけっしてないということです。

また、葛藤しているということは、自分自身と闘っているというです。

そして、それを世界に投影して、自分を傷つけ続けているのです。

私たちの誰もが皆、この世界の中でさまざまに様相を変えてそういうことをしているわけです。

本当は、自分から天国を拒絶し、自分から惨めで卑小で欠乏した自分になりたいと望んでやっているのです。

でありながら、そのことはすっかり忘れて、惨めで不幸な自分を演じ続けているのが、この世界の私たちなのです。

惨めで卑小で無力な存在になりたいと自分で願望しておきながら、それでもって惨めな自分にはなりたくはない、惨めな自分を見たくはない、と思っているわけですから、

なんという自己矛盾でしょう。

なんて愚かなのでしょう。

その愚かさに気づくことなく、もはや笑うことを忘れてしまっている状態になっているのが今の私たちだと、コースは教えてくれています。


すべてが一なる永遠の中に、一つの小さな狂った考えが忍び込み、その時点で神の子は笑うことを忘れてしまった。(T-28.Ⅷ.6:2)

奇跡講座/中央アート出版社


惨めさ、卑小さを自分で願望しているものの、その真実がすっかり抜け落ちているのです。

そして、何をしているかというと、

自分は犠牲者、被害者の仮面を装って、自分のせいじゃない、自分の責任じゃないとして、その代償たるものをまったく分かっていないのです。

そんな私たちに、コースのイエスはこう告げています。

自分がいかに惨めであるかをちゃんと見なさい!

毎瞬毎瞬、自分から惨めであるほうを選択して(信じて)いることを自覚しなさい!

自分で自らそう決断していることを思い出しなさい!と。


聖霊は幸せな学習者を必要としている。聖霊の使命は、幸せな学習者の中で幸せに達成される。ひたすら不幸に献身しているあなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。聖霊はこの対照性なくしては教えることができない。というのも、あなたは不幸こそが幸福だと信じているからである。こうしたことによりひどく混乱してきたため、あなたは決してできるはずのないことができるようにならない限り幸せになれないと信じ、それを学ぶことに取り組んできた。あなたは、この最もな奇妙なゴールの学びが依拠している土台はまったく意味のないものだと気づいていない。(T-14.Ⅱ.1:1-5)

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コースのイエスは、「私たちがいくら惨めであろうと不幸であろうと、それはすべて自分ででっち上げた作り話、つまり嘘(幻想)なのですよ」と教えてくれています。

にもかかわらず、私たちはコースのイエスが教えていることをまるで受け入れようとはしません。

私たちは、すべてが自分がでっち上げたまったくの作り話(嘘/幻想)であるというふうにはまったく思ってはおらず、むしろ、この世界は現実である、自分はこの世界の被害者だ、という(自分の考えのほう)を信じています。

自分が自我の狂気の思考体系と同一化してしまっていることに、まったく無自覚になってしまっているのです。

それでもコースのイエスは、これらすべてが自分が自分に行っている夢であり、そして、それらの内容は真実ではないことを私たちが思い出すために、コースの三部作を通してずっと導いてくれているといえます。

そう、コースのイエスは、自分が惨めであること、自分が幸せではないことを認識しなさい!と私たちに告げています。

本当は愛と喜びに満ち溢れた神の子であるのが真実であることを思い出しなさい!と告げてくれています。


あなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。(T-14.Ⅱ.1:2)

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何か足りていない、満たされていない、という想いにかられるとき、それは、自我を教師としているということです。

つまり、惨めさ、不幸を感じているなら、つまりは、聖霊/イエスを否定しているということです。

まず、そのことに気づきなさい!認識しなさい!とイエスは私たちに告げています。


あなたは、この最もな奇妙なゴールの学びが依拠している土台はまったく意味のないものだと気づいていない。(T-14.Ⅱ.1:5)

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私たちは、自分が惨めさと不幸の教師にひたすら献身しているということに気づくことが求められているわけです。

そのことを自覚/認識することがとても重要なのです。

というのも、その自覚/認識からでしか、学びも何もはじまっていかないからです。

聖霊という新しい教師から学んでいくことも、そして、幸せな学習者となっていくことも、まずはその認識からしかはじまらないということです。

にもかかわらず、私たちは、「自我と同一化したままでもかまわない、自我を教師としたままでもそれなりに自分は幸せ」と言っているのです。

言い換えるなら、私たちは「天国の愛や平安でなくったっていい、この世界の偽りの平安や偽りの幸せでいい」というふうに宣言し続けているということです

でも、自分がいかに惨めか、いかに不幸であるか!を認識して受け入れていくとき、幸せな学習者になっていくための第一歩がようやくはじまるといえます。

それは、狂気の状態から正気への大きな一歩だといえるでしょう。

なにせ、コースのイエスが私たちに伝えている内容は、私たちが自覚していない無意識レベルの部分なので、私たちはなかなか自覚/認識できないのです。

なので、無自覚なところを自覚していくこと、つまり、無意識のところを明らかにしていくこと、それが私たちに求められているわけです。

コースは、そのための霊性の道であるということを知っておきましょう。


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