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被害者と加害者のゲームから脱却していくための方法

私は自分が見ている世界の被害者ではない

私たちがこの世界(の夢の中)にいるということはどういうことなのか?

というならば、

じつのところ、私たちは自ら苦痛、苦しみを望んでこの世界にいるのだと言うことができます。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解するようになると、そういうことが認識されていくようになります。

つまりは、この世界にいる誰もが、自覚されていない無意識においては、苦痛、苦しみを望んでいるのだということです。

なにせ、その真実は私たちの無意識に隠されていて、まったくと言っていいほど認識されていない状態あります。

そして、私たちは、つい、この世界の被害者になろうとします。

でも、真実はそうではないのです。

そう、私たちはこの世界の夢の中で何をしているのか?まったく分かっていないのです。

たとえこの世界では被害者になることが正当化できるとしても、コースを実践している者であるならば、それは例外なく正当化できるものでないことを学ぶ必要があります。


私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-pI.31)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの学びと実践を通して本気でこの世界の夢から目覚めていきたいのであるならば、自分はけっして外側の世界の被害者にはならないとしていくことです。

被害者にならないとは、すべてが投影であることに気づいていくということです。

コースの学びと実践を徹底していくとき、それらが投影であることに容易く気づけるようになっていきます。

自分は、「自らが被害者になりたがっているだけ」と気づいていくならば、加害者を仕立て上げているのも自分の仕業だと分かってきます。

そいうことを認識していくにしたがって、「もうこの被害者(自己概念B)と加害者(自己概念C)のゲームを終わりにしたい」と望むようになっていくといえましょう。

というのも、自分(自我)のしていることがいかに愚かであり、いかに狂っているか!を認識するようになっていくならば、自ずとそのモチベーションが高まっていくのは自然なことだからです。

そして、そのときから、本格的な学びがはじまるといえます。

その学びとは、実践を通しての学びのことです。

言い換えるなら、私たちが狂った自我の思考体系に対して「もうこれを良しとはしない、もうこれを望まない」とならないかぎり、本当の学びははじまらないと言うことができます。

そうなってはじめて、学びと実践が本格的なものになっていくわけです。

自ら正気の思考体系(聖霊)を拒絶して、自ら狂気の思考体系(自我)を握りしめている、ということを認識していくことが必須だということです。

そうなってこそ、もう被害者にはならないという実践を適用していくようになるということです。

もし被害者になってしまうなら、そこにはもはや希望はありません。

それとは逆に、すべては自分の責任(自我を選択した自分の決断のせい)として見ていくならば、私たちはそこに「自我の思考体系の代わりに聖霊の思考体系を選び直すことができる」という希望(救い)を見い出すことができます。

それだけが私たちにできることであり、それだけが私たちの唯一の希望であり、救いであるわけです。


聖霊はあなたに苦痛を回避させるためにのみ導く。当然のことながら、これがゴールだと認識したなら、誰もそれに反対するはずはない。問題は、聖霊の言うことが真実であるか否かではなく、あなたが聖霊の言うことを聞きたいか否かである。(T-7.Ⅹ.3:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちが覚えておかなければならないのは、その選択肢において、毎瞬、必ずそのどちらかを選んでいるのだということです。

自我という苦痛、苦しみの教師を選び続けるのか?
それとも、
その代わりに聖霊という赦しと平安の教師を選ぶのか?

自分にはそれを選ぶことのできる決断の力があるのです。

つまり、自分は決断する心(決断の主体)なのだということを思い出していくことが私たちの目的なのだということです。

そして、その自分を思い出すことが被害者と加害者のゲームから脱却していく方法なのだということです。


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