苦しみとはいったい何なのか?なぜ苦しいのか?苦しみの原因は?
メタフィジックス(形而上学)は不可欠である
苦しみの原因は何なのか?
というならば、自我が問題なのではありません。
罪、罪悪感、恐れ、が問題なのでもありません。
分離の想念(小さな狂った考え)が問題なのでもありません。
何が問題なのか?
それは、それらを信じていること、それが問題なのだということです。
信じているのが問題なのだということです。
自我、分離、罪、罪悪感、恐れ、などといったものを信じているのが問題なのだということです。
それらすべてが虚偽であるにも関わらず、それらを信じていること、それが問題なのだということです。
つまりは、それらにパワーを投資しているのが問題なのだということです。
すべての問題は、それだけなのです。
それが、すべての苦しみの原因なのだということです。
その形而上学に基づいて問題の原因のところに戻っていくとき、
自分は何者か?
自分は何をしているのか?
をはっきりと見る(知る)ことができます。
私たちがしていくことは、その真の原因に戻っていくことであり、そして、その視座から自分たち(自我)がしていることをただ咎めずに見ることなだけといえます。
そこに戻るならば、それ以外に何もする必要はないことが明らかになります。
もし自我を変えようとするなら、自我をどうにかしようとするなら、自我と闘うことになります。
そうするとき、自我にパワーを投資することになります。
そうするならば、自我はますます強化されます。
すると、葛藤はさらに強まっていきます。
自我と闘うならば、それによって苦しみが生じるということです。
同じように、もし罪を、罪悪感を、恐れを、手放そうとして、どうにかしようとするなら、それらにパワーを投資することになり、それらはなおさら増大することになります。
そのようにして自分(たち)が経験していることに抗おうとするとき、苦しみが増大するのです。
変えようとすることは、闘っているということです。
それが、苦しみの原因なのだということです。
自分の内側をよく観察するならば、葛藤、苦しみは、そのようにして生じているのがよく分かります。
平安への第一歩は、闘っていることに気づいていくことです。
そのことに抗うならば、苦しみはなおさら増大します。
ですから、私たちがしていくのは、そして、私たちにできるのは、ただ「見る」だけなのです。
ただし、
どこ(どの視座)から見るのか?
どのように見るのか?
については、やはり、そのためのメタフィジックス(形而上学)が不可欠であるということは言うまでもありません。
そのために私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の形而上学を学んでいくこと、そして理解していくこと、ひいては実践(訓練)していくことが求められているのだということです。