「私の、偏執的なまでの『日付』へのこだわりについて」考えていたら哲学の本を手に取り始めてしまった
やらかしてしまった。
5月31日の朝、WEBメディアの新着記事の告知を見て早速記事を読んだ。その時「新着なのか。今日の記事っていう事なのかな。あれ、記事の公開日が見当たらないな……」と私は無意識に公開日情報を探した。
直接編集長にリプライを送れたので、「記事の公開日の記載はないのですか」と尋ねたところ、「(理由があって)出さないようにしている」との回答だった。
私はそこでたぶん自分が強く思い込んでいた「メディアの記事・コンテンツには公開日の併記が必要である」ということとのギャップにびっくりしてしまって、
・出版物に発行日時を明記するのは発行者がやるべきいちばん重要なこと
・webも印刷物も発行者が記事に責任を持つとしたら同じこと
・記事の公開日を記事内に記載しないことで高めた「記事の価値」はまやかしなのではないか。
と編集長本人にぶつけてしまった。
私自身がこう考えたのには今まで私がかかわってきた仕事や文化が影響していると思うが、それを疑うこともしないままにこんな強いことばでいうべきではなかったと反省している。
「責任がないと人に向かって言うならばきちんと理由を説明するべきだ」という返信もいただき、その後今までほぼ一日中「私はなぜ、ほとんど脊髄反射で『日付の明記されていない記事』に強い違和感を覚えて、責任がないとまで言い切ったんだろう?」「私にとって日付とはどういう情報なのか?」と言うことについて考えていた。
まず、お詫びを。
直接ご本人をののしる意図はなかったにせよ、「その判断」をした人を目の前にして強いことばで判断を否定するべきではなかった。
記事の感想も言わずに告知のツリーに指摘のリプライをつけてしまったことも反省している。何をやっているんだ私は……
以下はこの1週間のあいだ考えた「コンテンツとその発行日」についてのまとめになる。長くなりそうだが、興味のある人は読んでみてほしい。
・強く「発行日は重要である」と思うに至った背景
・普段、私は発行日を参考にどのような行動をしているか?
・新しくないコンテンツには価値がないのだろうか。
・これから「日付」の情報はどう取り扱われていくのか。
・私にとって「日付」と言う情報を求める気持ちは宗教に似ていた
・そして私は図書館で哲学の棚を眺めた
強く「発行日は重要である」と思うに至った背景
1997年から自サイトで情報を発信するなど、WEBコンテンツにもかかわっているが、書籍・雑誌にも記事を寄せたり、同人誌を長年発行し続けている。
・本の奥付
本には最後のほうに「奥付」ページがあり、発行者・印刷会社・発行日などの情報がそこへまとめて記載されている。商業流通している本はたいてい奥付がある。これは書籍の内容への問い合わせや、印刷にミスがあった時の対応のために重要なものであると理解していた。
・同人誌にも奥付は必要である
同人誌を作るとき、私はまず奥付のページを作成する。どんな内容の本になっても必ず必要なものが「奥付」だと思っているからだ。
その根拠は、20年近く参加し続けているコミックマーケットのサークル参加手引き書である「コミケットアピール」に毎回書かれているこの記述である。
「コミケットアピール」では上記のように奥付の必要性を「頒布物の責任の所在を明確にするため」と説明している。私はこの説明に納得し、同人誌には奥付を入れるようにした。また今まで購入した同人誌の多くにも奥付はあり、「本としての様式」を取るためにも備えておきたい情報なのである。
また、印刷会社も「奥付に必要な情報を明記すること」を呼び掛けている。
同人誌印刷でおなじみの太陽出版では、奥付がない場合は印刷できないと記載がある。(成人向け同人誌の場合。全年齢向けはなくても印刷を受けてくれるかもしれない、あ、でも「内容に関わらず」ってありますね)
・同人で活動を続けていくうえで、奥付を重要視していた
上記のように、発行物には必須事項であると認識していたので、発行者の責任としての奥付を重要視するようになっていた。その必要項目から「著者(発行者)、発行年月日、印刷会社、連絡先」はコンテンツを発信するものは表示すべきであると考えていた。
また、多くのWEBメディアでも記事の発行者情報や連絡先、発行日の記載があるため、付けるのは当たり前のことだと感じていた。これももしかすると思い込みで、明確な意図もなくなんでもかんでも「こういうもんだろ」と機械的につけているとしたらよくないことなのかもしれない。さあ、私は今後も日付を自分のWEB記事に記載していくのか?
・ところで、「奥付」ってなんなんだ?
せっかくだから奥付とは何なのかも改めて検索してみた。
私は重要なものだと思っているし、無ければ参加できないイベント・刷ってくれない印刷所があるぐらいだ。もしかしたら書店流通が出来なかったりもするのでは?と気になったからだ。
歴史的には明治時代に義務化されたことがあるが現在では義務ではなく、奥付がなくても良いようだ。「奥付」はそもそもなんのために作られたのかも知ると、妄信的に重要視するのも良くないと感じた。
読んだ資料でもそこを強めに批判しているように読みとれる。
参考:
千代田図書館 ミニ展示「奥付と検閲と著作権」関連講演会
奥付―誰が何のために
Wikipediaも参考に。
普段、私は発行日を参考にどのような行動をしているか?
何かを目にしたとき、発行日・更新日を確認することはもう身についたクセのようになってしまっている。だからこそ「無い」と思ったときに気になってしまったのだが、では普段私はそれをどう活用しているのだろうか。
・「前回訪問から今回まで」の確認に使う
例えばコラムの連載などをWEBサイトで見るとき、私はRSS購読など効率のいい新着チェック方法をほとんど使っていないため、ツイッターなどで告知されて気が向いたときに読むことが多い。
「このサイトの記事面白いんだよな。これが新着か。やっぱり面白いな。前回見たのは……この記事だ。じゃあこの記事の公開日時から、新着記事までの間に公開されたものはまだ読んでないってことだな。読もう」
こんな感じで一気に過去記事を読むことがある。
その際に記事へのリンクに日付が添えられていると便利だ。これは、時系列で記事を並べてもらえる・「第何回」と通番をつけてもらえることで解決しそうである。
・どれぐらい前に書かれた内容か?世界は変わっていないか?
今回の調べもので、「雑誌は売り場ですぐ古くなってしまうのを避けようと『〇月号』っていう表記よりだいぶ前に発売するけど、たしか『何日前だったらこれぐらい先の日付を書いてもいい』っていう決まりがあったよな。今でもあるのかな?」と検索した。
まず読んだのはこちらのページ。
ふむふむ……と読んだが、記事の公開日は2009年7月29日、参考文献は2000年発行の本らしい。
それぐらい前の情報だと、さすがに今は変わってる可能性があるだろう。
ほかのサイトもチェックする。
こちらは記事中に公開日時は無かったので、いつの情報かわからなかった。では、こちらが新しい記事とも限らないな……と判断する。
(ちなみに、パンくずリンクから前のページに戻ったらそこには書いてあった。2007/7/10の記事のようだ)
こういう、雑誌の発行年月日を実際の発売日より先の日付にすることは「先付」と呼ぶらしい。それで検索してたどり着いたサイトからリンクされていた資料は2022年改訂版だったので、こちらが参考になりそうだ。
この例の場合は資料性が高いサイトで、調べたい内容も直近のものかどうかが重要だったので日付は必要だった。
2020年より前の記事か後の記事かでも読者の受け取り方が変わりそう。コロナ禍を前提にしているか、していないかで世界の見え方が変わりそうだから。
・コラムや人の感情、考え方、物語の場合は日付はいらないのだろうか
私は自分の短編小説にも書いた日付は極力入れるようにしている。
これは自分が「いつ頃書いたものか」忘れがちで、覚えておきたくて、知りたくなったらサッと知れることを重視してわかりやすい場所に記載している。用途は自分用のメモだから、本来はなくてもいいのかもしれない。
他にも「この人〇年前にこんなこと考えてたんだな」とか、「だいぶ昔だから今の考え方とは違うかもな」「いまいちうまくできてないけど、こんなに前の作品だったら今は良くなっているかもな」など……日付から得られる情報で伝えられることもありそうだと思う。
作品の出来を「昔のだから大目に見てね」と言いたいわけだ。
こっちのほうが「作品の質で勝負していない」と思われることもあるかもしれないな。自作は昔の作品のほうがキレがあることも多いので、それはそれで楽しみ。「この時代にもうこんなこと言ってたんだぞ」とドヤることもある。
・ストリートビューでも目の端にいつも「撮影年月」を見ている
Google ストリートビューが好きだ。実際に現地に行く以上にしっかり景色を眺めることができているという自信があるが、ネットからでは見えないものや体験できないもののことも忘れないようにしている。におい、温度、湿度、時間、人とのコミユニケーションはストリートビューを見ているだけでは得られない。
客観的にストリートビューの情報を把握するために、東西南北や位置関係や標高、自治体の境界線や時間帯も調べつつ、気にしながらみるようにしている。
もう一つ大事なのは撮影年月だ。「2022年3月」「2016年11月」など、PC版なら左上と右下に表示されている(執筆時)。
交差点に入った時や、道の角を曲がったり、自治体をまたいだ途端に撮影年月日が変わることがある。私はそれを見逃さないようにこころがけている。
いつ撮影された景色なのかと言う情報は重要で、間違えたくないし、その時の風景だと知れることは楽しいことだからだ。
・新しくないコンテンツには価値がないのだろうか。
新しい記事には新着記事と言う価値がある。ちょっと経つと「新しくないな」と思われるのもわかる。その後時間が経つと、記事の価値は下げ止まってまた少しずつ上がってくるんじゃないかなと感じる。「公開日時のあたりではそうだったんだ」と言う資料性価値として。
私はよく国会図書館の検索を使って、言葉の使われ方や価値観の変化を見ている。もし発行年月日の日付がわからないとまったく参考にならない文献になってしまう。
そこまで残す予定も意味もない記事でも、できれば私は多くの記事が「その時の考え・出来事」を内包して存在し続けてほしい。個人の日記でもいいし観察記録でもエラーログでもいい……
これから「日付」の情報はどう取り扱われていくのか。
私にとって日付は、上記のように「私の中で情報の信頼性を高め、記事の内容と時間を絡めることで内容の受け取り方を変えていく」上で重要だということは分かった。
では、他の人にとってはどうだろう。
・自分に都合のいい情報は見つからなかった
この記事を書くにあたって、私の主張を裏付ける情報として「公的機関では日付を表記することをギムづけている」とか「世界のジャーナリズムは日付を重要視している」などの情報があればいいなあと思って検索していた。しかし今のところそこまではっきり示すような記載は見つけられていない。海外のメディアリテラシーのガイドラインとか、総務省の情報通信白書とか眺めてみたけど都合よく私の「味方」をしてくれる情報はなかった。
やっぱり自分の気持ちだけなのかもしれないな。そしたら自分の気持ちはこうですよと言う内容で文章を書くのが一番だと思ってここまで書いている……
・教育の現場で教えられていること
私は自分なりに「情報を見るときに気を付けなくてはいけないこと」として「日付」を重視していると書いてきた。
メディアリテラシー教育やWEB上の情報利用の手引きに使われている資料を見ていると、自治体や学校で使われている資料には「情報の信頼性を見極めるには、いつ公開された情報かを確認する」と言う項目が多くの場合に見られた。
これはSNSでのデマや悪意を持ったWEBサイトに騙されないようにする・拡散しないようにするためのテクニックだが、これを教育された人たちが今後私のように「日付もチェックしよう」と無意識に考えるようになるかもしれないなと感じた。
参考:(PDFばかりですいません)
https://www.nichibun-g.co.jp/textbooks/joho/support/download/moral3_44-45_sample.pdf
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/glim/pdf/search/howtosearch/2016-strongest-guidebook-1.pdf
https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/44152/r3_nettrouble11.pdf
・CRAAPテストの普及も気になる。
記事の信頼性の評価に使う視点としてCRAAPテストと言うのがあるらしく、その「C」は「通用性」とのこと。今も通用する内容か?新しい情報か?と言う視点で記事をチェックしようという事のようだ。
いままで書いてきた通り、書かれた日付が古いからと言って本質的なところが変わるわけではないので、全く価値がないと判断するのはもったいないと思う。でもとりあえずいつのものか知ることで、通用性を判断しようという動きはありそうだ。記事に日付が記載されていない場合「最近更新したばかりで、新しい情報で、価値がある記事」とも思ってもらえない可能性はないだろうか? 「記事の公開から数年たっているけど、この記事より新しい記事はない」と言う場合にも、価値を見出してもらえなくなってしまう可能性もあるかもしれない。
・日付の情報に惑わされて「なんだ古い記事か」と思われず、過去記事をいつまでも良い記事としてアクセスしてもらうために考えてみる
たとえば新着から3か月は新着として日付を表示しておき、その後はアーカイブとして日付は関係なく読んで欲しい記事として置いておくのはどうだろう?
私としては過去記事を「関連記事」「こんな記事も読まれています」「過去の人気記事」として新着記事からリンクすることで掘り起こせたら良いかもと素人ながら考える。(みんな当たり前のようにやっていると思うけど)自分がそういうリンクから過去の良い記事をどんどん読んでいく派なので、ほかにもそういう人はいるんじゃないか。
そんな人間が多くないとしたら的を射てないかもしれない。
自分のサイトは過去の記事にも結構アクセスがある。
「ああー、公開したのはもうだいぶ前だけど、いまだにアクセスがあるなあ」と言う実感があり、なんだか恥ずかしいような気すらする。でも公開しておいて、書いてよかったという気持ちにもなる。
だから情報はなるべく早く公開し、なるべく長くそのまま見られるような状態にしておきたい。
カテゴリ検索・リンク集時代からWEBサイトを運営していると、全文検索の便利さとシビアさを両方感じる。
全文検索できることで情報にドンピシャでたどり着く。でも、ほかのページが全く見られない。蜘蛛の巣のようにあちこちからリンクして張り巡らしたコンテンツが、まるで朝露のようにひとつぶひとつぶ蜘蛛の巣できらめいて、みんなそこだけをめがけてやってくるのだ……
私にとって「日付」と言う情報を求める気持ちは宗教に似ていた
・おもいだせば、子どものころから変わらない行動
子どものころから手帳と日記帳を持ち、新年になるとそこへ「誕生日」を書き込んでいた。自分のものではなく、クラスメイト、芸能人、国内外の政治家、漫画のキャラクターなど知った誕生日は全部書き込んだ。前年のものを新しい手帳にも転記する。○○記念日も好きでどんどん書き込む。
まるで日付の存在を疑うことがないように。
私は自分のサイトの記事にも積極的に日付を書き込む。システムで自動的に投稿日時が振られるブログ記事のタイトルの多くにも日付を手で入力して書き込んでいる。
・私の存在、時間を過ぎてきたこと、タイムラインに目印を置くこと
Twitterでフォローしている人がつい最近「時間が経過しないと私は存在できない」とつぶやいており、それを見て「あ! 私も時間の経過によって存在し、そして振り返った時に確実にそこを通り抜けてきた実感としての石のような目印をタイムラインに置き続けていて、そのよりどころが『日付』なんじゃないか!?」と急に思いついたのだ。
時間の間に目印の小石を置くことは、私にとって生を進め死に寄り添い時間を刻み・厚みを増し肉付けしていくことなのかもしれない。
また、向精神薬を飲んでいた若い頃の記憶の不安定さは、私に後から客観的に判断できる情報としてタイムスタンプと詳細な記録を残すきっかけになっているだろう。
存在を疑うことなく、心のよりどころにして、信じているこの感じは「宗教」に似てきているんじゃないか?
そして私は図書館で哲学の棚を眺めた
5日(月)、定期的に通ってる図書館で本を読み終えて帰ろうとした私はふと今回の件を思い出して「何か参考になりそうな本があるかもしれない」と棚を眺めた。すると目についたのは「時間」に関する哲学の本。
知らなかった……時間って哲学の本になってるんだ……そりゃそうか……
月曜日は時間切れ。少し立ち読みしてから家に帰った。
火曜日にもう一度図書館にやってきて、昨日手に取った本数冊をパラパラめくってみる。(全部をしっかり読めてないのでまた後日読みたい)
時間の解体新書 手話と産みの空間で始める
田中さをり 明石書店 2021/10/15初版
時間について考えるとき「音声言語のみで考える限り見落としがちな問題がある」と手話での時間表現を交えて解説していたり、子どもとの対話、出産する性であるという事から体験する時間の流れなど視点が面白かった。
ときは、ながれない 「時間」の分析哲学
八木沢敬 講談社 2022/11/10
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000369172
最初の「論理的に考えるとはどういうことか」がとても分かりやすかったので、普段論理的に考えることがとても苦手な私の勉強にもなりそうだと思ったのだけど、本編は私にはすんなり理解できないものだった。焦らずもう一回時間をおいて読んでみたい。
時間
エヴァ ホフマン みすず書房 2020/6/1
こちらはエッセイのような語り口でとても読みやすくて、よさそう。ぜひ読んでみたい。4,000円となかなかの値段なのでエイッと思いきらなければ買えなそうな気がする。(「ピダハン」と同じみすず書房さんだ!)
アーッ!!自分自身に思い当たるところがある! 自分の発達がゆっくりで完成されていないという自覚と、それでもコントロールしたいという欲が私の日付や時刻に執着してしまう原因なのかもしれない。無いと途端によりどころを失い、不安になってしまうのもそのせいだろうか。
その後もハイデガーの存在と時間だとか、時間は宗教によって感じ方が違うとか、とにかく一気に情報がなだれ込んできて興味はあるが混乱している。
これをきっかけに、私を支配して魅了する「時間」についてじっくり考えてみるのがいいかもしれない。
時間とは何か 第一話 | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座