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母親という存在のズルさ-後悔

私には母がいる。

レベル1の日本語で始まって申し訳ないが事実だ。当たり前だけど。

それにしても母親ってズルくないですか。いやマジで。

先の記事にもチラッと書いたのだけれど私は両親と快い関係を築く事が出来なかったのだ。

それは父にも母にも、勿論私にも責任があって誰が悪いとは一概には言えないけれど、それでも母親ってズルいし、俺は頭が悪過ぎる。

私の母親は癇癪持ちで、ズボラで、怠惰で料理が上手だった。学校で弁当を食べる日はとても誇らしかったのを覚えている。もう味も覚えてはいないけれど。

両親に怒られた回数や殴られた回数、外に放り出された回数はもう覚えてない。今思うと時代に即さない苛烈な教育だった。恨んではない。なんなら最近までみんなそうだと思っていたくらいだ。

不幸自慢は好きじゃないけれど、小学6年の時父の不倫が発覚した。10も歳の離れた若い女性だった。浮気と不倫の違いも知らない時分ではあったがどういう事なのかはわかっていた。6年生って意外と大人だし。

中1の夏頃まで話はもつれたが結果として別居にはなったが離婚には至らなかった。3人兄弟で末の子は小1になったばかりだったから。そう母は言っていた。

父とは正月や盆、節目毎に祖母の家で会っていたが、家を出る前に兄と私、2日に分けて深夜2人きりでドライブをした。父が言っていた事は覚えている。「悪いと思っている」「もう耐えられない」「母さんと弟を頼む」「お前なら大丈夫だ」


どういう義務感なのかはわからないけれど中1の私は何故か自治会のドブさらいや町内の掃除に父の代わりに参加するようになった。多分邪魔だったし、双子とはいえ兄は面白くなかったと思う。今思うと兄には申し訳ない事をした。

母は父が家からいなくなると家事をあまりしなくなった。0時を過ぎてからしか帰ってこなくなった。当時は知らなかったがパチンコだかスロットだかに傾倒していたようだった。(父から聞いた)

洗濯は0時過ぎに帰ってからするせいでジャージ通学可の中学に通っていた私と兄は毎日生乾きの服で通学し、弟は食事を待ち毎日0時過ぎまで起きていた。小学1年生なのに。

勝手に洗濯や掃除すると母は「当てつけか」と喚き、私を殴った。そして泣きながら散々部屋を荒らして最後には必ず「私の10年を返せ」と言って、私は毎回泣いて謝る。この繰り返しだった。

私は人の激情や大きな怒鳴り声を聴くと気持ち悪くなるようになって酷い時は吐いてしまうようになった。(元々それらは聞いていて気持ちのいいものではないのだけれど)

いつしか玄関と廊下の電球は切れ常に真っ暗で、猫のトイレで異臭のする玄関は誰も使わず、リビングの窓から家に出入りするようになった。兄と私の殴り合いの喧嘩で壁に穴は空き、リビングの窓とずっと出してあるコタツの布団はカビ、弟が泣かない日はなかった。

ただ土日は毎週レンタルビデオを借りに行き、4人でいろんなビデオを見た。楽しかったと思う。弟が特に気に入ったマダガスカルはDVDを買った、100回は観た。マジで。

そんな生活も2年が過ぎ私が中学3年になると度々、電気やガスが止まるようになった。石油ストーブの天板で真っ暗の中焼いたパンとスパムの味は一生忘れない。水道は止まらなかった。使われないダイニングテーブルには赤い判子が押してある物々しい封筒が散乱していたが、部屋が散乱しているので気にはならなかった。弟は毎日腹を空かしてか寂しさか私や兄に怒鳴られて泣いていたし、私は本当にどうしようもない人間の屑だった。

私は高校生になり、頭が悪すぎた私は私立の工業高に入り(私立に行くと言うことでも母と揉めたが)そこから3カ月、高校1年の夏、母親が帰ってこなくなった。

死んだわけではない。家に帰ってこなくなった。

蒸発した。

借金で首が回らなくなり逃げたのだ。家のローンは溜まりに溜まり、差し押さえの為に裁判所が動いていたらしい。

その後父が家に帰ってきた。当時住んでいた家がどれだけ不衛生で不潔で異常かを私ら兄弟に説き、高校1年生の夏に私は何年か振りに生乾きではない制服を着た。

そして父は母と正式に離婚し(母は祖父母に匿われていた。)当然のような顔で3年間一緒に住んでいた不倫相手と再婚し家族の1人として受け入れるように私らに伝えた。承諾以外の選択肢は無かった。

色々と問題も悶着も折り合いもつかないこともあったがコレは母の話なので割愛する。

高校も卒業間近、父方の祖母の家に居た私と兄に母からの連絡があった。

「会いたい」と言う話だった。母方の祖父母のいる長野県で仕事をして暮らしていると言っていた。祖母はそれに行くように私らに言った。


「アンタ達の母親なんだから大切にしなさい」


私は行きたくなかったが祖母の顔を立てることにした。

電車で数時間、駅の待ち合わせに遅れてやってきた母は随分と老けていた気がした。

私は涙を堪えた。なぜ涙が出るかわからなかったからだ。兄は心底嬉しそうに泣いていた。助手席は兄に譲った。

2日間過ごしたが母の手料理は美味しかった。けれど調理の仕事をしているからか昔と味は変わっていたのを覚えている。家にワインなんて無かったし、あまり好きな味ではなかったからコレを最後に母とはもう会わないと思った。薄情な息子だ。何度も泣きながら謝られたのに。

高校を卒業し家を出て4年、毎年私の誕生日にはラインが。母の誕生日には電話がかかってきていた。

電話の時には母は必ず泣いていて、何度も謝られた。「こんな母親でごめんね」「許してもらえなくて当然だよね」

そして必ず「また4人で暮らしたいね」そう言っていた。

私は何故か泣きながら頷くだけだった。

去年来たラインを仕事の忙しさで無視してから母親のラインはパッタリとこなくなった。プロフィールの画像が昨日変わっていたから多分生きている。

息子に許すか許さないを委ねる事すらしてくれない母親はずるいなぁと思う。

私の中では許す、許さないなんて考えた事もなかったのに。それは母親という存在だからなのか。

私から連絡は出来ないままだ。

薄情な息子でごめんなさい。

貴女の23年はどう返したらいいのか、たまに考えているから許して欲しい。

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