「I’m home.」
これまでライフワークのひとつとして、旅をしてきた。
酔狂以外の何者でもない。
何の生産性もない。
タイパ/コスパは極めて悪い。
新自由主義ワールドの成功者・勝利者を目指す人たちのベクトルとは真逆の方向性。
この文化圏の殉職美徳的な滅私奉公価値観とも真逆な方向性。
そんな「無駄」なことが好きで好きで仕方なくって。
そんな「無益」なことのおかげで自分が自分でいられた、やっとのことで生きてこられた。
そのことは確実に言えることで。
2020年頃からの「疫病への対応」という一時代。
「旅に行く」そのことが、できなかった。
実のところ、僕自身、驚くほどあっさりと、それを受け容れて、より自分に近いことに目を向けて、日常を噛み締めるように生活していたことを、もはや懐かしい記憶として持っている。
2020年からの暫定的な疫病対応モード、それに、そこそこ「順応」できていたのは、いったん、ゴリゴリな新自由主義や、滅私奉公至上主義美徳が、社会的なムードとして、緊急対応的に「緩和」されていたからだろう。
しかし、社会の歯車がその回転の制約をもはや考慮しなくても良くなったことで、強欲さをエンジンとするネオリベラリズムや、かつてこの文化圏を破滅に追いやった様式美に殉じる行動規範めいたものが、(性懲りも無く)この世界に戻ってきた。
①がまんする
②自己啓発的に受け容れて前向きに生きる
③考えないようにする
④闘う
⑤逃げる
⑥突き抜ける
⑦状況を冷静に捉えつつ(変化のチャンスを伺いつつ)やり過ごす
明らかに不適応を起こしている僕が、「大きなもの」に対峙するには、上記にリストアップしたようなことを、臨機応変に取っていくしかないのだろうけど。
何より、生き延びなきゃ始まらないのは前提。
市場原理や空気の支配に侵食されずに、サバイブしていくためにも。
僕にとっては、「無駄」「無益」なものが、著しく必要なのだ。
明らかな意識はしてはいなかったけど、「旅」への強い欲求の再燃は、そういうことでもあったのかな、と3回ほど旅した後で、感じている。
もちろん、旅そのものが、とてつもなく楽しい、おもしろい。好奇心を掻き立てられる、というのがいちばんの要素であることは言うまでもないが。
とにもかくにも、自分自身、旅のワールドに「ただいま(I’m home).」。