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子どもは名前を呼ばれたがっている。
今日、次男と長女が通うこども園の遠足があった。
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たったこれだけのお弁当作るのすら余裕なく、さらに敷物が1つしか見当たらず、朝から大慌て。前日から準備したらよかった、と毎回後悔するのに。
仕方なく、特大のレジャーシートを小さく折りたたんで次男のリュックに押し込む。
園に子たちを送り届けた後、お友達と手を繋ぎ、元気よく出発する姿を見送ろうと、門の前で待ち伏せた。
専業主婦ならば見送り可能だが、多くの働く親は、見送りなどできない。
微妙な立ち位置の私は、少々居心地の悪さを感じつつも、我が子の名を呼んで手を振る。
嬉しそうに手を振り返す子どもたち。
その一方で、その場にいないお母さんを子どもたちが探している姿に、少しだけ胸が痛む。
知っている限りの子どもたちの名前を呼んでいると、
「〇〇くんのお母さん!」と呼んでくれたり、手を振り返してくれたりする。
その顔がパッと明るくなる瞬間、愛しさで胸が押しつぶされそうになる。
子どもは、自分を見て欲しがっている。
名前を呼ばれたがっている。
そう感じて、なぜだか泣きそうになった。
午後は、民生委員の市の大会があり、参加してきた。
市長挨拶などで寝そうになったが、
「子どもの権利を尊重する」という講演が始まり、途中からメモを取りながら聞き入った。
その中で、初めて聞く言葉「アドボケイト」に強く興味を引かれた。
「子どもアドボケイト」とは、子どもの声を聴き、支援をする人です。
この動画が講演の最後に流されて、涙が出てきた。
全ての子どもたちが、愛されて、尊ばれて、幸せでいてほしいと胸が熱くなってしまって。
その思いの根底にあるものは、きっとこれだ。
私が子どもたちの幸せを願ってやまないのは、
家庭不和で自分の置かれた環境をコントロールできず、子ども心に「どんなに願っても祈ってもかなわないことがある」と泣き暮らしていた過去があったせいじゃないかと。
子どもだから、どうしようもできない。そんな絶望的な気持ちになってしまう子どもの息抜きになれるような存在になりたくてたまらないのだ。
今日は朝から「子ども」という存在にとりわけ想いを馳せ、その尊さを改めて感じ入った日になった。
普段、ちゃんと子の顔を見て話を聞けていない自分を戒める1日にもなった。
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