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自分に厳しいのは、自分に期待してるから。
noteの記事、公開後に何度か読み返していると、誤字脱字だけじゃなく、「てにをは」なんかもすぐ直したくなる。
例えばこんな部分とか。
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人の記事の「てにをは」はあんまり気にならない。
「この文をこうしたらいいのに」など、ほとんど思わない。
しかし自分の文章となると、そうはいかない。
読み返すたびにちまちまと何度も修正している。
可能な限り、自分の中でのベストを目指したいのかもしれない。
(自分を完璧主義と思ったことはないが)
たぶん、自分には、もっと読みやすい文を書けるだろう、よりしっくりくる表現ができるはず、と信じているんだろう。
さらなる上を目指すこの気持ちは、楽しいものだ。
ふと、我が子への接し方にも通じるような気がしてきた。
「期待のキは、嫌われるのキ」
オリンピック体操選手の内村航平さんのお母さんのそんな言葉を聞いたことがある。しかし、子に期待しないでいられる親などいるのだろうか。私はしょっちゅう言っている。
「あんたならできるはず」
まぁ、言葉のあやだろうから、航平さんのお母さんに対して異論を唱えるつもりはないのだけど、別に期待したっていいのではないか。
現状を否定さえしなければ。
冒頭の、てにをはを直す話に戻ると、
「今のままでもいいけど、もっと良くしたい」という自分への期待は、厳しいというよりは、自分への愛情とも言える。自らの願望に耳を傾けて、それを叶えようとするのだから。
ということは、子どもの気持ちを汲んだり、もっと頑張りたい気持ちを確認したりしているならば、期待することは悪くなさそうだぞ。
子の気持ちを置いてきぼりにさえしなきゃ。
親の理想を押し付けたりしなければ。
なんて。そうは言っても、子どもがしんどくて泣いていても「もっと頑張れるはずだ」とか言ってしまう自分がいる。親のエゴ、見栄を0にはできない自分を認め、自戒の記事としたい。
ちゃぼはちさんの、長きに渡って葛藤しながら、それでもお子さんに寄り添ってきた軌跡をずっと見せてもらってきた。ここ数日の彼女の記事に胸打たれ、ふとこんな記事を書きたくなった。
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