『西の魔女が死んだ』梨木香歩
この本を読むのは二度目になる。映画も一度見た。"二度目まして"であるにもかかわらず、深いところで自分に響くものがあった。名著はこのようにして人々の心に養分を届けてくれるのだろう。
本書の主な登場人物は、進級をきっかけに学校に行けなくなった少女「まい」と、田舎で暮らす「おばあちゃん(西の魔女)」である。
今回は、おばあちゃんの言うところの「魔女修行」について、本文を引用しながらまとめてみたい。
① 精神力ってなあに?おばあちゃん
魔女修行というものは、ちょっとやそっとで身につくものではなく、長い年月が必要だということと、基礎的な力として精神力が必要だとおばあちゃんは言う。
「精神力って、根性みたいなもの?」と尋ねるまいに対しておばあちゃんは次のように答えるのだ。
おばあちゃんは、精神力に必要なことの一つに「身体」を挙げる。その健全な身体を作るためには、筋トレや走り込みなどの修行が必要なのではない。
ことだと説く。実は生活を調えることが身体を調えることなのだ。言ってみれば当たり前のことなのだが、果たして現代人のどれほどの人が、この「当たり前」を日常生活に落とし込めているだろうか。
② 悪魔を防ぐにはどうすればの?おばあちゃん
おばあちゃんは、この世には悪魔もいると説く。その悪魔を防ぐために、精神力と心を鍛えることだけで十分なのだろうかと、まいは疑問に思うのだ。おばあちゃんの回答は↓
これも、おばあちゃんはさらっと言っているが、本当にできているのか?と、自問したい。よくないと思っていながらその習慣から抜け出せない、やめられない、ついつい、、、等、意志の力はどこへ行ったのか?と思わざるをえないことが、わたし自身にもたくさんある。魔女修行って、シンプルに聞こえるが、シンプルが故に難しい。
ここで、まいがナイスな質問をしてくれる。
③ 意志の力って、生まれつき決まっているんじゃないの?おばあちゃん
そうそう。強い意志を貫徹できる人とそうでない人は、生まれつきもってきた才能ではないのか?できる人とできない人がいるじゃないか。ナイスまい!この質問に対して、おばあちゃんはこう答える↓
このあとまいは、自分は意志の力がもともと弱いと言い、おばあちゃんは「わたしはそうは思ったことはないですよ」とまいに伝える。その後自室に戻ったまいは、小さな目標を紙に書き出していくのだが、こういう小さな取り組みを積み上げること、コツコツと、黙々と、淡々と、もうひたすらやっていくことでしか、意志の力は強くすることはできないのだろう。ここに王道はないのだ。
④ 見えないものをどうやって見えるようにするの?おばあちゃん
まいの魔女修行も進んでいき、ある日、おばあちゃんはまいにこう問う↓
このおばあちゃんから与えられたお題に対し、まいはあれほど毎日使っていたマグの細部を再現できないことに気づく。そのコツをおばあちゃんに聞くと
という技を教えてくれる。しかしこれには注意点があって
ということだった。やはりここでも自分の意志。一流の魔女には意志が大事なのだ。そしてやっぱりおばあちゃんは、日々の暮らしを何より大切にしていた。朝起きて朝日を浴びる、庭の植物たちの様子を愛でる、お茶を入れて飲む、そんな当たり前の日常を愛しんで生きていたのだった。
⑤ なんで苦しいのに身体があるの?おばあちゃん
おばあちゃんと過ごす中で、まいにはひとつの疑問があった。それは「死」についてだった。まいはかつて父親に「死」について尋ねるが、それに対する父の回答に深く傷つく。目の前で飼っていた生き物を亡くす経験をしたまいは、命について深く考えさせられていたのだ。そして身体をもつことへの意義を見失ってしまいそうになる。身体って苦しむためにあるんじゃないか、わたしたちは死ぬ練習をしているんじゃないか、と。
この言葉は、おばあちゃんの命の捉え方だった。身体を持つことは苦しみを伴う。わたしたちは死ぬために生きているようなものなのか。それでも、おばあちゃんは、この身体をポジティブなものにとらえていた。魂は成長したがっているのだから、身体を持てたことはラッキーだよと。かくして、まいの「死」に対する絶望にも似た捉え方は、ゆるやかにほどけていくのだった。
⑥ おばあちゃんによる最後の魔女修行
まいは、とある事件から、ある人を毛嫌いするようになる。その人がいるだけでネガティブな考えが自分の中で渦巻くようになってしまう。その人を見かけただけで「あの人はきっと悪さをしようとしているんだ」という、ネガティブな直感を持つようになってしまうのだった。そんなまいに、おばあちゃんは静かに言う。
こんな風に、時折「魔女修行」という名の元の、おばあちゃんの金言が続いていく。
おばあちゃんの家に滞在する期間も終わりに近づく頃、まいはある出来事をきっかけにして、おばあちゃんとの間にしこりを残してしまう。そこから生まれたわだかまりを解消できないまま、結局まいはおばあちゃんの元を去ることになるのだ。魚の骨が喉にひっかかったままのような、感じた違和感がそのまま自分の中でくすぶっているような、そんな状態で。
最終場面は、その魚の骨がしっかりと取れたのかどうかわからないままだった。ただ間違いなくわかることは、まいとおばあちゃんとの間で交わされた約束が、しっかりと果たされたことだ。これは、まいが疑問に思った、「死ぬってどういうこと?」に対する、おばあちゃんのファイナルアンサー、最後のあとにやってきた、魔女修行のエピローグだったのだ。
こんなにいい本だっけ?
と、あらためて思ってしまったくらい、味わいが深い名著だとわたしは思う。好きな思う本を再度読み返す醍醐味がここにある。
『西の魔女が死んだ』、あらためてオススメします。
ちなみに、この原作の映画の舞台(ロケ地)となったのが、山梨県北杜市清里にある八が岳は清泉寮近くのKEEP財団の敷地だ。今はもう公開されていないが、わたしが山梨の近くに住んでいた頃には見学ができた。映画のおばあちゃん役には、シャーリーマクレーンの実娘であるサラ・パーカーさん。
2年ほど前、清泉寮近くの森を散歩したが、西の魔女~を思い出したのは言うまでもない。