照れずに丁寧に愛を注ぐ
いつものことだけど、昨日の出来事をぐるぐると考えてしまう私。
自分が言った言葉をなぞり
自分がしたことをなぞり
誰かの話をなぞり
これは癖なのかなぁ
反省しているわけでもないけれど、その場面を思い出しなぞってしまう。
じんわり薄まっていくことを待つしかないか
パッと切り替えたいって思うけど、できないから仕方ない
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私がちょっと喋った時ものすごく久しぶりにあった友人から「ああ、そんな話し方だった」と言われました。
(え?どんな話し方?)自分の特徴って自分じゃわかりません。
確かに他の人のことは「ああ、昔もこんな口調だったな」ってわかる。
そして昔も落ち着いていた人は、今も落ち着いていて、昔も大変そうだった人は、今も大変そう。その人らしさってあんまり変わんないのかな。
と、人のことはわかるけど、じゃあ自分がどんな感じなの?って言われたらわかんない。
カトラリーを配ったり、コップの水を気にしたり、店員さんに声をかけたり、なんやかんややっていた。これをやりすぎると疲れちゃうんだろうな。一生懸命気にしてるわけでもないんだけど。気づいちゃうからやってしまう。
今回は疲れるほどのことはしていないから、いいと思うけど「いつもやる人」みたいになってしまうと、段々嫌になっちゃうんだろう。
なんとなく「ここまで」と言うような線を自分で決めておくといいのかな。
無理をしない、は絶対だけど
手の届く範囲だけ
三回に一回は気付いてもやらない
たまに甘えてやってもらう とか
自分のちょうどいいがわかっていると良さそう。
いい人と思われたい。そんな下心も入っていると思います。
人間だから、そんな気持ちがあったっていいと認めた上で、
皆んなに気持ちよく過ごしてもらいたい
喜んでもらいたい
そんな愛から動いているんじゃないかって
自分に都合のいい解釈も入れておこうと思います。
どうせやるなら「愛から」ってことにしちゃおう。
今回、クリスマスのちょっとしたお菓子を皆んなに持って行きました。
もちろん、ありがとうと受け取ってくれた上でですが、
自分は何も持ってきていないのに、と申し訳なく思ってくれる人がほとんどでした。多分私が逆の立場でもそう言うでしょう。
「ごめーん、私何にも持ってきてないのに、いいのー?」って。
でも私は、ハッピーな気持ちになってくれたらいいな、そんな思いだったので、ただ喜んでくれれば十分でした。
だから今度もし、逆の立場になることがあったら
まずは「ありがとう!」と
私を思い準備してくれた事を、もっとちゃんと喜ぼうって思いました。
そして反省点は、恐縮する皆んなに「いいのよー」とパパッと雑に配ってしまったこと。
せっかくなんだから、もっと丁寧に心をのせて渡せばよかった。
愛を注いでいると意識する
照れずに丁寧に愛を注ぐ
今後の私の課題です。
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