先生に求めたい「想像力」
熱心な先生
1人目の子どもは、何事もゆっくり、マイペース、しかし負けず嫌いでした。小学1年生の時、熱心な先生にあたり、大量の宿題が毎日課されていました。
字を書くことも読むことも遅く、音読はほぼ暗記して対応していました。宿題が多すぎて、終わらずに就寝することになると、明け方3時に起きてきて「ママ一緒に宿題やろう」と懇願されました。そのことを担任の先生に話すと、「〇ちゃんは、朝3時に起きて宿題をやっているそうです!〇ちゃんの努力、すごいですね、みんなも見習いましょう」というプレッシャーをさらにかけられてしまいました。宿題の減量をお願いしたところ「〇ちゃんの可能性を潰すようなことは私にはできません」と言われてしまいました。
立場が変われば、見方も変わる
保護者としての言い分
どれだけ家で苦労して宿題に取り組んでいるのか、分かってるんですか?睡眠時間を削ってまで、やることですか?学校につく頃には疲れ果てていることに気が付かないんですか?
先生としての言い分
低学年のうちから机に向かう習慣を身に着けないと、将来苦労します。達成感を味わってもらいたいんです。今この時期がとても大切なんです。本人には頑張ればできるんだってわかってもらいたいんです。
使命感を持って、教職にあたっている素晴らしい先生です。しかし、うちの子は違うんです。苦労の度合いが違うんです。特性があることも話してあるのに、宿題の量や質が全員一律で出されることには納得いきませんでした。先生からの「可能性を潰すことはできない」「将来苦労します」という発言は、私を苦しめました。私は親として宿題を減らしてほしいと要望すること自体が「子どもの可能性を潰し、将来苦労させることになる」ということを暗に突き付けられているように感じ、もうそれからは何も言えなくなりました。
「みんな一緒だよ」と「みんな違うんだよ」
学校の先生にありがちな考え方に「みんな一緒だよ」という言葉があります。これは私にとって怖い言葉です。みんなが5分でできることが3時間かかるんです。みんなが一回失敗して次は失敗しないように注意してできることが、ずーっと失敗の連続なんです。そのたびにその子は何度も怒られて自信をなくて不安症になっていくんです。周りからは何度も失敗するバカな子とみられ、孤立していくんです。
わかってほしい
小学校1年から中学1年まで、学校の先生方にずっと言い続けてきました。私自身教職についていますから、先生の立場も分かりますので、そこをかなり丁寧に説明してきました。しかし先生方は表面的な理解で、その後の指導に繋がらないことが多かったです。トラブルがあるたびに「だから初めにこういいましたよね」と言いたくなるけれど、それを堪え、もっと分かりやすい言葉で言い換えて…など、苦労してきました。先生が努力していない、とは思っていなかったし、時間を作って何度も面談をしてくれる先生に感謝したいという気持ちがあったので、物腰はできるだけやわらかく、本意が伝わるよう工夫してきました。でも理解してもらえていないんだ、というのは、毎日泣いて帰宅する娘をみて確信していました。理解されない苦しみと、日々心が壊れていく娘を見て、私自身が壊れそうになっていきました。
熱心な先生ではなく、想像力のある先生を
これまでに出会ったどの先生方も熱心に子どもと向き合う人たちでした。価値観、正義、理想、がハッキリとしていました。それはいつも「一つ」でした。学校はやはりそういうところで、多様性が一切認められない、暗黙の了解、空気を読む、これらが強制させられる場だと思いました。
価値観は人それぞれ、正義は見方を変えれば異なる、理想は文化や社会で変わってくる
自分の信念に向かって熱心に取り組む先生って聞こえはいいけど、正直困ることが多かったです。目の前にいる子どもが何に困っているのか、その背後にいる保護者が何に困っているのか、見えることと見えないことに想像力を働かせて、学校での指導に当たってもらいたいと思いました。