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電ǂ鯨さんの曲から感じる死生観

 電ǂ鯨さんの「さみしいひと」という曲が好きだ。
 「ガタゴト叩くよ洗濯機」「安全扇風機」などと言った歌詞が繰り返されて生活を語る歌だ。
 MVを見ていると、夏の夕方に洗濯機の音、製造機から氷が落ちる音、包丁の小気味のいい音が鳴る生活音に塗れた場所にいる錯覚を得る。
 そして、この場所にいると何故かずっと寂しい気持ちになるのだ。その生活が愛おしくて、いつか終わるのを感じてもがき苦しむ。そんな感覚だ。
 実際、「さみしいひと」は
 「だれもいない きのうきえちまったあの人 大丈夫と言えばよかった 見つめる製造機」
と締め括られる。
 この歌はいつもの暮らしが崩壊した後の歌なのだ。
 この曲だけじゃない、電ǂ鯨さんの曲はいつでも
「日常」→「日常の崩壊」→「日常への回帰」
というストーリーが潜んでいる。
 「さみしいひと」は大事な人を失って、悲しみの真っ只中にいる誰かの歌なのだと思う。それでも暮らしは止まってはくれなくて、製造機は氷を「あの人」が居た時と変わらず動作を続ける。
 短い歌ながら歌詞の流れが完璧だ。
 いつまでも聴き続けてこの悲しみに浸りたくなる。洗濯機を回さないと生活は続けられないのに。
 失われてもなお続く様は、「暮しガスメーター」でも描かれている。
 曲の序盤で郵便局にお金を払ったり、コンビニで買い物したり、洗濯物の取り込みをして二人暮らしを続ける歌い手は、ラストサビにて片割れを失ってしまう。そして、歌詞の最後は「団地A棟の狭い空の下」と不変のものを指して締め括られるのだ。

 電ǂ鯨さんの曲を聞いていると、「ああこの感覚だ」と納得する。自分はこの死生観の中で生きてるなと感じる。
 この歌たちはどこまでも現実だ、漢詩の『春望』で詠まれた「国破れて山河あり」を現代に落とし込んでいる。
 どれだけ悲惨な出来事があったあとでも山河が美しく流れているように、悲しくても寂しくても、製造命令を下されている冷蔵庫は氷を生産し続ける。
 これは現実を受け入れろと言うことではなく、自分が止まってしまっても、その他は非情にも続いていってしまうということなのだ。
 そしてやがて人は、悲しむことに諦めをつけて時の止まった空間から這い出る。
 腹が立つほど時間が進む場所に。

 流れていくことは「時効」が効くようになるから、ある種救いだと思う。
 けれど悲しまずに前を向けとは思わない。だってこの歌を聴いている限りは、その苦しみに浸っていて良いのだから。

 これは人からの受け売りだが、「悲しみを感じること」もまた人の強さだと思う。
 だから、貴方が「さみしいひと」ならその時は思いっきり「さみしいひと」でいてほしい。周りの時は進んでしまうけど、「お前がいない間こんなことあったよ」って教えてくれる人がきっといるから。
 思う存分悲しみに溺れて、ちょっと陽の光を浴びたくなったら出てくる、そのくらいがちょうど良いよ。また悲しみの海に溺れたって良いんだから、我々は貴方をいつまでも待っている。

 きっと人生はそれの繰り返しなんだ、暮らしは続いていく。


ところで…
「眠りも浅いままで」収録曲の「架空の家族」が先日MV化されたので是非聞いてください!
最高!

架空の家族(うた:可不)https://youtu.be/bQ8s4Jl3hoc


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